ホームエッセイほろ酔い人生

ほろ酔い人生

A Life like A happy Drink

●サラリーマン百態

 良  縁

 最近、恋愛の自由が叫ばれ、若人の天国を詔歌するような時代になったが、恋愛から結婚へのコースをたどつてきたものでも、離婚するものが多く、それは戦前の比ではないという。
 ある雑誌の離婚組座談会で、評論家大宅壮一氏は、
「現代の世相の兆候として、恋愛の自由があるから、離婚の自由がある。その自由は、人生を折り曲げた自由である」
 と結論づけていたことを記憶している。
 なるほど、昔だと、良縁だといわれて結婚すると、もうその家で骨を埋める覚悟が必要だった。
そして、夫に仕え、しゅうとめにも仕え、身を粉にして働くのが通例であった。
 だが、このごろはだいぶ違ってきた。職場の恋愛も自由であり、どんな交際も本人同士の意思でできる。親でもとやかくいう権利はないとまで極言されているようだ。
 そのうえ、結婚を前提とする恋愛かと思ったら、よくいわれるゼロ号夫人とか恋愛遊戯とかいって、青春を思う存分エンジョイしたいという言いぶんもあるようだ。
先日、京都の友人が結婚するというので、はるばる休暇をもらって参列した。友人は婿養子で、一介の中学教師だったが、花嫁は有名会社の専務の令嬢とかで、いわゆる〃良家の子女″と見えて、
京都の有名人が連なっていた。しかもお決まりの恋愛コースをたどつて、親の反対を押し切って結婚式にまでこぎつけたというから、まことにうらやましいしだいだった。
 居並ぶ来賓連は、異口同音に「良縁」だと祝福する。ある人は、人生のツーステップだとか、相性がよいとか、歯が浮くような祝福ぶりだった。
 だが、それもつかの間、二カ月余で離婚してしまったから不思議である。そのうえ、離婚の理由がはっきりしない。どうのこうのと、うわさがうわさを生んで、妙な飛語まで飛ぶようになった。
私は、彼の性格はじゅうぶん知っていた。しかし、花嫁の性格は深くは知らない。
 彼は生来感情派で、雷同しやすく、おおまかで、こまかなことは問題にしないという、いわゆるドライ派だった。聞くところによると、花嫁は、箱入り娘ときているから、性格や環境上のギャップがあり、それが原因だったらしい。
 こんな例は、最近とんと珍しくないようだ。しかし、一応良縁だとして結婚に踏み切る以上は、それこそ人生のツーステップであって、互いに理解と信頼をもって、幸福への道を開拓せねばならないと思う。
 これから結婚ヘスタートする若い人に向かって水をさすようだが、私は良縁だということは、結婚前にいうべきものでなく、結婚後幾年か経て、過去を振り返り「われわれは良縁だった」と懐古するのが、真の良縁というべきでなかろうかと考える。
 では、良縁を得るためには、どんなことをすればよいか、私はアメリカの作家リコポニ夫人の次の言葉で説明できるのではないかと思う。
 「結婚前には、どんなに愛する者の欠点を捜しても捜しすぎるということはない。結婚が取り結ばれたあとでは、相手の欠点をどんなに大目に見ても見すぎることはない」

 生き字引き氏

 どこの会社、官庁、団体でも、たいてい生き字引き氏といわれる人物がいるものだ。
 なるほど、新入社員が仕事のうえでわからないことにつき当たった場合に、古い書類を引き出して、あれやこれやと長時間頭をひねって、なお、釈然としないことがある。
 こんなときに、生き字引き氏にちょっと尋ねたら立て板に水とばかりにズバリわかることがある。
非常に便利なことである。こんな人物は、会社ではなかなかすてがたい貴重な存在であるとして、同僚の間でも金の卵のように重宝がられることがしばしばである。
先日、私の職場で、遺族年金の支給の可否について「内縁」という字句が問題になった。「内縁」ということを法律上から言うと「届け出はしないが事実上婚姻同様の事情にあるもの」となっている。
この定義は、関係者であればみんな知っているのであるが、いざ事例を引き出してみると、話がこみ入って、しやくし定規のようにはいかない。
 内縁というのはとかくむずかしいことで、問題の男女双方が一時的な私通か、重婚的なめかけ関係か、それらの期間などが介在すると、いろいろな裏付けが必要になってくる。しかも、中心となるべき人物がすでに死亡しているからややこしい。
 激論すること数十分。結局、生き字引き氏に伺候とあいなった。
「そりゃ君、婚姻届けを出す状態であったかどうかをつきとめればよいのさ」
 とやや抽象的であるが、いとも簡単な答え。こんなぐあいに、生き字引き氏の存在は、まさに名刀の切れ味である。
 だが、ここで考えねばならない。明鏡のような生き字引き氏は普通の職員の何分の一かで事務を処理していくから、同僚からは重宝がられ、本人もまた得意になっているのである。しかし、長い目で見れば、このような人物は、会社にとっても、本人にとっても不幸な人物でないかと思う。
 というのは、生き字引き氏が休めば、事務が一時ストップするし、退職すれば真っ暗やみになる。
 そのうえ、通常、生き字引き氏というものは、どうしたわけか大器はいない。一生、生き字引き氏という型に入ってしまって転勤もできず、昇進にも災いされ、いわば会社の観賞用の花でしかない。
 そればかりか、同僚は生き字引き氏に依存する傾向が強くなり、独創性の欠如から研究欲を次第に失ってゆくものである。これでは職務の向上は望めない。
 事業は人なり、といわれている。すなわち、運用の妙は人にあるというわけである。人が事業を始め、組織を作り、さらにはその組織に人が使われているのである。その組織を構成する者の中に、このような生き字引き氏がいたとするなれば、ある意味で運用を誤っているのでないかと思う。
 言いかえれば、前記内縁論が、深い事情を内蔵しているのと同じように、この問題も社会的に何か考え直さねばならないのでないか。

 魅力ある男性

 このあいだ、ある団体の機関紙に″魅力ある女性″という随筆を書いたら、意外にも、県下多数の女性から百雷のような批判を浴びせられた。なんのことはない。女性の魅力を書こうとすれば、悪いとは知りながら、女性の欠点を書かねばならない。あれこれをズバリ書いたことが、おかんむりの原因だったらしい。
 というわけでもないが、女性にはほおかぶりして、わが親愛なる男性の魅力はなんであるか、そのポイントをさぐってみることとする。
 さて、男性は、たいていおっとりしていることで定評があるが、これを形容したヌーボー男に、獅子文六の自由学校に出てくる五百助がある。この男を、黒毛虫のようなまゆ、コッペパンのような鼻、懐中電灯が二つ輝いているような目、福助人形的な頭と書いてある。また同じように、有吉佐和子は、男の魅力を「無とんちゃくさ」と、簡単に定義し、これを欠くものは男性でないといいきっている。
 このように、魅力ある男性の代名詞は、神経が太い、豪放ライラク型、フランク、ノンキ、腹が大きい、野放図、泰然自若、寛容、鈍感、粗野というぐあいに、いくらでもあげられる。
 また、知人のある社長は、五官助に輪をかけたような鷹揚(おうよう)型であるが、囲碁となると、興起これば無我夢中、たばこを逆さにくわえるくらいは序の口で、ハエがコップにはいっていても、ゴクリと飲み込む無神経さ。これを横目で見ている悪童社員は「見ろ」と肩をすくめて笑っているというからコッケイである。
 こんな社長は、ある意味で魅力ある男性として、社員間では好評サクサクで、なかなかの成長株であるという。
 世の中には、こんなタイプの男がたくさんいる。ちょっと職場をながめても、昼あんどんだの白川夜船だのという男性が、かなりの人気を集めているのに驚かされる。
 だが、こんな男性に限って、心は他愛ないが、欲目にみても、ふうさいはあがらないようだ。だのに、意外にも、こんな男性が女性によくもてるのはどういうわけか。
 これを裏付けるおもしろいことを紹介しよう。
 つい最近、結婚しているある気やすい看護婦が突然、
「私、こんな男性、魅力あるのよ」
 と前置きして、何をいうのかと思ったら、
「バスの中でよく見るでしょう。シワだらけのズボンをはいている人、髪をバサバサにしている男性。それと、ボタンを忘れて平然としている男性、こんなの最高にイカスわ」
 この女、悪趣味だと、心の中で笑いをこらえてふんふんと聞いていたら、なお言葉を続けて、
「ワタシンとこの○○先生たらね、いつもボタンをはずして診察しているの」
 とまあ、臆面もなく、こんなことを言っていた。
 なるほど、と聞いていたものの、この女性から言わすれば、よごれの男性は優等生で、トンボ頭や、このごろ流行の筋のはいったなんとかズボンなどは、零点以下の評価になるようだ。こんなところを見ている現代女性の眼力を想像すると、異常であり、脅威的であり、常に何を考えているのか、まったくゆだんもすきもあったものでない。
 以上のような間のぬけたすすけた男性を、女性特有の神経のこまやかなところから見れば、かなりの魅力があるそうだから、この種の男性、胸を張って歩いてよかろう。
 しかし、よく考えれば、この眼力は、テラリ男性を見ただけの瞬間的な観察であって、真の魅力を知る観察力とはいいがたいのではないかと思う。

 笑いとユーモア

 昔″笑うかどには福きたる″ということばがあった。これは文字のとおり、人生は、えがおで暮らせば幸福が来るという意味であるが、さて、笑いとは何か、ということになると、その要素には、いろいろとむずかしいことがあるようだ。
 ところで、どこの会社にも、または、たいていの課に、一人や二人はしゃれのうまい人がいて、しょっちゅうおもしろい話を聞かせて笑わせているものである。しやれも、だじゃれの連発や、鼻もちならぬ話題をおりまぜたものなどは、ちょっと困るけれども、とにかく、そのような人がいてくれることは、職場の空気を明るくし、仕事に笑いの余韻を残す意味で、うるおいがあるので、大変ありがたいことである。
 人間が笑うということは、愉快な精神を外形に現わす作用であって、相手方にも、この作用を伝達することになり、ともに笑いのふんいきをかもし出す無上のエッセンスなのである。
 が、いちがいに笑いというけれども、たいていの場合は「職場にはユーモア」といっているようだ。しかし、笑いとユーモアとは、少しニュアンスが異なるのではないか。というのは、笑いとユーモアは、不即不離、あるいは、表裏の関係にあるのは言をまたないが、私が読んだり、聞いたりまたは考えたりしたことから割り出すと、だいたいにおいて、笑いとは、人からあたえられるものであって、ユーモアとは、現実の中から、自分がつかみ出すものだ、といってよさそうである。
 ユーモアについて、もっと掘り下げてみるなれば、ユーモアとは、人生観、すなわち人間関係につながっているものが含まれているものだと思っている。もちろん、笑いにも、人生観は大いに関係があるけれども、笑いは一時的なものだが、ユーモアは永遠に連なり、人間のしあわせに密着しているようである。
 万一、職場で腹が立っても、お互いに、人間とはなんとなくうら悲しくておかしな存在なのだ、とわかっていれば、憤りが消えうせて、思わず「自分を笑う」 という心理がわいてくるのでなかろうか。
 島崎藤村は「ユーモアのない一日は、きわめて寂しい一日である」といっている。「ユーモアのない職場は、きわめて寂しい職場である」といい直してもよかろう。そしてまた、林悟堂も「人間の英知とは、現実に夢を加え、さらにユーモアを加えることだ」ということをいっているし、夏目漱石が「草枕」の冒頭に「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」といっているのは、あまりにも有名で、心にくいまでにその真意を描き出している。
 このように、笑いもユーモアも、人間が絶望的になったときに、本当の威力を発揮することができるものであると、私は深く信じているのである。
 このごろ、日常茶飯事に「人づくり」のことを見聞するのであるが、人は職場にあっても、自宅にいても、ただ、自分をみがく、よいことをするというだけでは、なんだか味気ない、うるおいのない人生になってしまうような気がするのであるが、笑いとか、ユーモアのある、あたたかいふんいきの中から見出され、捜し出された、ほのぼのとし七「人づくり」であるなれば、それこそこの世はバラ色にいろどられることまちがいなしといってよかろう。

 釜 め し

 先日、東京からの帰途、長野へ行くため信越本線を利用した。長野との県境確氷峠にかかるところで横川駅へ着いた。この線を利用して特に感じたことは、各駅における駅弁である。宇都宮では茶めし、ぜんまい弁当、ひさごずし、とりめしなどがあって、どこでも売り子がさかんに客を呼んでいたが、横川駅で 「釜めし」を買ってみようという心づもりであったので、高崎のとりめしやだるま弁当もそのまま見送ってしまった。
 列車が横川駅のホームにすべり込むと、釜めしの売り子が黄色い声をはりあげて車窓に呼ぶ。
 「釜めし」というのは、日本駅弁界でも名門だそうだ。宇都宮につづいて全国二番目。そのうえ、明治十人年に売り出した歴史をもっているといわれている。その昔、横川駅は列車の終着駅であったので、峠の難路を越えるのに、ここでにぎり飯五銭ナリを払って腰弁当にしたと、名所案内に書いてあった。
 最近これが、リバイバルムードにのって「釜めし」 に復活したのは「グッドアイデアだ」と、このへんの乗客がふいちょうしていた。
 もっとくわしくいうと、昔下野の防人(さきもり)が背中にしょってきた土器でご飯をたき、故郷に残した妻のことを思いしのんだという万葉の古歌にヒントを得て、昭和三十三年から売り出したそうだ。
 ところで、最近は、この「釜めし」をまねて、国鉄の駅で数多く売り出していることは、たいていの方はご承知であろう。
 それから、東京銀座の裏あたりでも「釜めし屋」さんが軒を連ね、若い二人連れが、小さな「釜めし」をフーフー吹きながら食べている光景に出くわすことがある。それほど「釜めし」は、方々に流行している。
 横川駅を過ぎて約十五分で食べ終わった。そして釜を捨てようかどうしようかと思案したのだが、釜だけが○○円もするというので、もったいないから、とうとう持って帰り、今でも床に飾ってある。
 この「釜めし」 の元祖、横川の釜と、東北本線黒磯の「釜めし」とは、いずれも栃木県の益子焼きだと聞いて、わが地元徳島をかえりみて思ったことである。
 本県の大麻町は、四国でも屈指の陶器の産地である。茶器あり、ツボありカメあり、植え木ばちあり食器ありと、その製品は幅広く有名であるが、庶民的な製品として、その価値は認められているけれども、時代に即応するトップアイデアとか芸術性または他県人に好かれる何物かが欠けているように思う。
 そのうえ、徳島駅には、旅情をなぐさめるような駅弁も見当たらない。ただ、池田駅の祖谷そばが、本県の代表といえばそうともいえよう。
 剣山、鳴門開発という大きい構想に並行して、これらニューアイデアによる、小さな、そして旅人の印象に残るようなものをくふうして、ローカルカラーを出したら、徳島を紹介する一つの原動力になりはしないか。

 一等サラリーマン

 学窓を出て就職戦線に飛び込んだ人々は、勉学にいそしんだ若き時代を一片の思い出として、心のすみに折りたたんでしまい、これからは、希望と責任のあるサラリーマン生活を送らなければならないのである。
 では、一等サラリーマンになるためには、どんな心がけが必要であろうかトといって、いまさら精神訓話めいたことを言ってもはじまらないが、私の長いサラリーマン生活の体験からいえることは、大きく分けて誠実型と要領型の二つのタイブがあるように思う。といって、誠実にも、要領にも、なかなか手のこんだ異色型も多いのだが、それは別として、このいろいろなタイブを、経営者である社長からながめた場合と、同僚から見た場合とは、これまたニュアンスが多少ちがっているのでないか。
 では、ちょっと、サラリーマンの世界を裏窓からのぞいてみることとしよう。
 まず、誠実型であるが、これは、自分に与えられた仕事に対し、かげひなたなく、せっせと働く社員。いうなれば、コマネズミのように働く型である。忠実、努力的などであるが、要領がへたであるから、働く割には実があがらない。例えば、万事、地味なため、終始のけじめがはっきりしないことなどで、華やかさというものがあまりない。こういう社員は損な性分で、端的に言えば″世の中を細く長く渡る型″とか″石橋をたたいて渡る型″である。であるから、こんなタイブの人たちは、一生の間に大きな失敗もなければ、損失もない。よい意味の大器晩成型でもある。
 これと反対に、要領型というのがある。これは、あまり聞こえはよくないが、要領を地でいくよぅな社員は、一時的には、波にのる場合があるようである。すなわち、この型の社員は、社長の前では、手もみ、ごもっとも主義で、何事も平身低頭するという、いわゆるイエスマンと称する泳ぎのうまい社員がそれである。
 だが、こういう社員は、つねに七面鳥のように、社長の顔をうかがいつつ、変幻自在に身のふり方をかえるから、うっかりすると、思わぬところでシッポをつかまれ、ぬきさしならぬ失敗劇を演ずることがある。
 しかしながら″要領″という魔術をつねにもっているから、そこは、巧みな演技力をいかして、社長の心をつかむだけの自信がある。まさに不思議である。そのうえ、この型は、目先がよくきくためか、いつも洞察と判断力を先回りさせ、同僚をけ落としても一歩先のことをやる鋭い眼力があるので、上役にはきわめてうけがよいのに、同僚や下役にはあまり信頼されないようだ。
 この型を悪く評すると″巧言令色鮮仁(こうげんれいしょくすくなしじん)″といい、もっと酷評すれば、タヌキとか、ゴマすりなどといわれ、ときには、同僚からしっペいがえしをくったり、やがては、みずから墓穴を掘る哀れむべき人物になりかねない。
 結局総合判定では、誠実型に軍配があがるといわねば、見せしめにもならぬが、私はこれが一等サラリーマンになる素質であるように思う。

 新入社員

 先日、私の職場で国家公務員試験に合格した数人の面接試験を行った。その試問の中で〃あなたは、どうしてこの職場を受験されましたか″と聞くと、ある青年は″堅実なサラリーマンは、生活の安定があるから…‥・″と答えた。
 この純真な青年は、現代のサラリーマン生活を側面的に観察し、単純に表現しただけで、それに大した意味はないようであった。しかし、その答えを受けた私は″サラリーマンという言葉は、ロマンチックに聞こえるようだけれど、その道は、とてもけわしいですよ″というと、とたんに姿勢を正して″じゅうぶん覚悟はしております″と目を輝かせていた。
 さる三月には、たいていの会社で、このようなテストを行って、新旧社員の新陳代謝や、これにともなう配置替えなどの人事交流を実施したことであろうと思う。そして、無事入社できたサラリーマンは、希望と夢に胸をふくらませて、ビジネスマン第一課を勉強しているころでもあろう。
 だが、そのなかには、従来自由がきいた学生生活から、心身ともに拘束されるサラリーマン生活に変わった精神的な平衡のひずみが、多かれ少なかれ生じている者も、かなりあるにちがいない。
それが証拠に、毎年、希望とあこがれに燃えて勇躍職業戦線に飛び込んだはずの青年の一部が、何かのつごうで、帰郷しているのはどういうわけか。
 いまや四月。うまく行けば、新入社員は、そろそろ仕事に対する不安も解け、社風にも慣れ、同僚との付き合いも軌道に乗っているときである。
 だが、社会を知るにつれ、職場に慣れるにつれて、現在の自分の職務について、自信と責任を持たねばならないのに、かえって劣等感や精神的な行きづまりを感じている者を、ときどき見ることができる。
 すなわち、その原因にはいろいろあろうけれども、例えば旧社員が、いつも自分の行動を監視しているように思ったり、または上司が自分のあやまちを知って黙視しているのではなかろうか…・
などの自己閉鎖観念が支配して、精神的に動きがとれなくなってくる・・・・・これが新入社員のもっとも警戒すべき最初の赤信号といえるようだ。
 言葉をかえていうなれば、新入社員というものは、ちょうど、われわれが日中映画館にはいったときと同じように考えればよい。自分はまず目標とする画面だけは、はっきり見ることができるけれども、あたりはまったく暗く、どこに席があるのかわからない。手探りで、あちらこちらと慎重な足どりで席を捜さねばなるまい。これと反対に、すでに着席している観客は、目が慣れているから、新入りの一挙手一投足はよくわかるのである。
 ある者は、幸いに着席できたが、ある者はとうとう起立のまま数時間映画を見たとする。この双方の立ち場の差を新入社員の心境に置き替えるなれば、就職当初において、幸運をつかんだ者は、希望に拍車をかけて喜びにひたるであろうが、片や不幸にも、初めにつまづいた者は″これが自分に与えられた職業なのか″と、あらぬ不安とあせりを覚えるのではないか、と思うのである。
 この不安とあせりを無事乗り越えることができるなれば、職場離脱という破局を迎えることはまずあるまい。万一、このような試練があったとした場合、まじめに局面打開に努力すべきはもちろんだが、これを単なる「ふみこし」と解して、自分自身に笑いかけてすませるだけの精神的なゆとりを持つべきだと思う。

 転  勤

 どこの職場においても、ある時期がくれば転勤がある。これは、みやづとめという運命によって必ず覚悟をしなければならない事実なのである。この転勤という一片の辞令を受け取ったなれば、その者の環境や心の持ち方によって、これが歓喜にもなり悲哀にもなりうるものである。
 しかしながら、職場に勤める以上、本人ははじめから転勤を予想して就職したのであるから、ある程度のあきらめが必要だし、またそれを契機として再出発ということもあるだろう。
 このように本人は転勤ということをどのように解釈しようとも、転勤をするたびに本人とともに行動しなければならない運命にある子弟の心理作用はどんなであろうか。
 まず転勤にともなう子弟の学校問題である。教科書の相違、通学距離および転校による心理作用、または学力の心理的なギャップからくる低下、学友との調和、はては精神的な抵抗と劣等感など、感じやすい少年少女時代の落し穴がここかしこに見受けられるのである。
 私は、このことについて、少年時代ににがい体験をしたことを記憶している。当時、私の父は警察官であった。徳島市内を振り出しに、小松島市、勝浦郡の各町の駐在所を転勤した。そのつど、私は転校を余儀なくされたのである。私は子供心に、父の転勤は職業的にみて仕方がないものと思っていたものの、その反面、転校という事実に直面するたびに、旧友との別離を悲しみ、そして新しい友だちに対する不安をいだいていたのである。
 父に連れられて新しい学校の門をくぐる。そして担当の先生にあずけられると、父は帰ってしまう。こみあげてくる孤立感。やがて、先生から級友に紹介されると、一礼して自分の机に向かう。
そのときの所在なさとバツの悪さがひとしきり胸をつく。このような不安をくりかえすこと六回。
たまには、父の職巣をうらむことさえあった。世の転勤を宿命とする人たちの気持ちもさることながら、転勤をするたびにつきまとう子供の心理状態が原因して、これが一身上にどのような波紋を及ぽすか、当時をかえりみて、ときどきそう思うことすらある。
 四月の新学期が終わってやっと落ち着いたころ、いつもこんなぐちめいたことが脳裏をかすめるのであるが、現在の少年少女にこんな話をしたら、理解してくれるかどうか。案外ドライに割り切っているかもしれないが、本人はともかくとして、その家族に与える影響はかなり大きいことは事実である。
 だが、幾年経た今日、私は過去に歩んで来たこれらのことを、人生の試練として、または私自身のささやかな教訓と考えて、いつまでも将来に向かって生かして行きたいと思っている。
 ″運命の中に偶然はない。人間はある運命に出会う以前に、自分がそれを作っているのだ″と、
これは、アメリカの第二十八代大統領ウィルソンのことばであるが、転勤にもまた同じことがいえるのではないか。転勤ということを善意に考えるだけの広い心の持ち主でありたいと思う。

 サラリーマン百態

 ぁるサラリーマン作家は″サラリーマンには三日三月三年にスランプがくる″といっている。これは希望に胸ふくらませて就職した会社が、職場が、仕事が入社三日目に自分の理想とくい違い、三月目に自信と責任感を失い、三年目になっていよいよ自己の進路に不安が起こってくるということのようである。
 さる三月に入社した新入社員たちは、八月で六ヶカ月になる。六ヶ月目といえば、私なりに考えると、仕事は別として職場の空気に慣れ、同僚とのつきあいもできて、冗談の一つもいったり、ときたま女子職員とお茶でも飲む機会ができるころでもある。
 そしてまた、社風を知り、上役や、同僚の性格、趣味についても一応研究が終わり、これに対する返事の仕方、受け取り方などものみ込んで、中にはサラリーマンの奥の手ともいわれる要領の片りんをチラチラ見せるころも、やはり六ヶ月目前後といえるようだ。
 ところで、世にいわれるサラリーマンの性格・…つまりタイブとはどんなものがあるだろうか。
六ヶ月日のサラリーマンがながめた現実の姿とは、大まかにいってこんなものではあるまいか。
 まず第一は一等社員型である。
 いわゆる上役の性格をすばやくつかみ、しかも仕事のツボと要領をうまいぐあいに心得て、そのうえ、同僚の交際にもそつがなく、万事マイペースで出世街道を進んでいく幸運なサラリーマンである。
 第二は万年平社員型である。
 三日三月三年をよそに″十年一日″で勤めあげる型といってもよいが、性格的には地味で要領のコツを知らないため一生″石橋をたたいて渡る″よい意味の晩成型といえよう。だが、悪くいえば毒にも薬にもならない型であり、もっと極端にいうならば無能で不運なタイブとでもいおうか。
 第三は石部金吉型である。
 融通もきかず要領も知らず、そのうえ酒もたばこものまない仕事オンリーの型である。こんな社員は「女も知らないかいしょなし」ということで、ときどき同僚からつまはじきされる悲運な社員であるが、会社の生き字引き氏にまつり上げられるので、人物評価は見る人により差があるようである。
 第四はゴマスリ型である。
 通称″ハイコミ型″ともいわれる。これは仕事はそこそこにして、上役への奉仕に専念し、上役の奥様には″将を射んと欲すれば馬を射よ式″に、お世辞をならべ、そうじの奉仕から買い物の手伝いまでやる最敬礼型である。
 第五は世話女房型である。
 職場にはよろず相談所式な社員がいるものだ。むつみ会長や運動会、レクリエーションの幹事などを一手に引き受けるお人よし型である。なかなか恨めないので人気者にはなれるが、それから先はどうだろうか。
 他にへ理屈型、いらいら型、昼あんどん型などいろいろあろうが、さしずめ女房にいやがられるようなサラリーマンではそれから先が思いやられる。世に世渡りじょうずということがあるが、要するに人に好かれることこそ、よきサラリーマンの前提ではなかろうか。

 アユの昧

 すんなりとして、みるからに美しい姿と高雅な風味をもつアユを、われわれは″川ざかなの王″と呼んでいる。とりわけ本県の各河川の清流ではなじみが深い。六月一日解禁からもう三カ月、魚体も大きくなって釣りてんぐの胸をおどらせている。
 半田町のタライ舟で舌つづみを打つアユ料理や、吉野川をはじめ那賀川、勝浦川上流で釣ったばかりの生きのよい姿焼きもなかなかすてがたい野趣があるが、クーラーのきいたお座敷で大きなアユをつつきながら、夏の夜をたのしむのもこのごろのふぜいというものであろうか。
 この″川ざかなの王″と呼ばれる鮎という文字は、日本独特のものであるといわれる。中国では鮎という字はナマズをさし、わが国では、古くは安由、阿由と書き、女性の名前に阿由売(あゆめ)というのがあった、と古い文献にある。
 このようにアユという呼び名は、古くからイキで愛すべき意味をもち、中国でも香魚(シャンユィ)といわれているほど、高尚な姿と味をもっている。
 見てよし、食べてよしのこのアユは、本県ではこのところ夏の味覚として食卓をにぎわしているが、突然来客があったときなど、急いで手に入れたいと思ってもなかなか手に入らないのが現状である。料亭などは二、三日前に申し込んでおけば、その筋に手を回してよろしくとりよせてくれるのであるが、自分で求めようと思えば、遠く漁場まで行かなければならないところに少し難点があるようだ。
 しかし、これほど珍重されるアユの真の味には、川ざかな特有の臭みもなく、料理によっては骨まで食べることができる。ということで、食べ方についても、さしみ、みそ焼き、煮物、からあげなどとりどりあって、代表的なものとしては、なんとしても塩焼きが一番である。これだと、姿は損じないし、味も落ちない。
 そしてまた、焼く方法についての秘法をある板前さんに尋ねてみると、表は赤銅色にほてるていど、裏は多少こげてもシンまで通るように焼くのがよろしいという。焼きかげんは目が白くなればよく、尾ビレと背ビレがピンとなるように化粧焼きすればなお満点だと、つばをのみこみ、のどから手が出るようなことをおっしゃる。
 ところで、われわれ食べる側としては、最近の日本料理は″見せる料理″との定評があり、中身はそれほどよくないといわれているものの、アユに限ってはそれは当たらない。で、たいていは、小量のワサビをきかせて、スタチでグッと味をひきしめたところにえもいえぬ味がひそんでいるのである。これがアユ料理の極意でもあろう。
 長良川にはウ飼いがある。これはウという鳥の習性を利用してアユをとるということで全国的にも有名だか、本県は吉野川というアユの豊漁場を保有している。この豊富なアユとスダチを巧みに組み合わせて、これをじゅうぶんに生かすような風流な施設を作り、これを観光の一助として売り出してはどうだろうか。

 歳末助けあい

 私たちの一生は、その毎日があらゆる意味において競争の連続であるといってよい。もの心がつくころから、私たちは人生競争のスタートラインに立たされているようなものだ。
 自由競争の世の中に生きる私たちにとっては、あるいはこれもやむをえないかもしれないが、長い一生をかけた自由競争を通じて、私たちが知らず知らずのうちに、自己主義者、利己主義者になってしまったら、いったい私たちの社会はどうなってしまうだろう。そしてまた、この狭い世の中で、自由競争をたてに、相手をけ落としてまで、自分だけの幸福を追求するようなことがあれば、私たちの社会生活は弱肉強食のわなに陥ってしまうに違いない。そんなことになれば、社会は不安と恐怖におののき、まったく安定ある社会はなり立たない。自由競争が悪いというのではないが、自由競争が生んだ社会のひずみを、私たちみんなが是正していかないと、運悪く社会の下積みに立たされた人たちは永久に救済されないかもしれない。石川啄木ではないが″働けど働けどわが暮し楽にならざり″と嘆く人たちがこの世にどれほど多いことか。
 今や歳末助けあい運動が行われている。これは毎年の行事であって、とり立てて目新しい運動とはいえないが、これら人生の底辺に生活する人々に、あたたかい正月を迎えてもらうように、私たちは十二月の声を聞いて、はじめて再認識されるという愚を大いに恥じなければならないと思うのである。
 戦前は、救世軍の″慈善なべ″というのがあって、町行く人々の小さな善意を集めたものであったが、今ではこのようなある面の消極的な運動ではあきたらず、積極的な〃赤い羽根″運動や歳末助け合い運動などに移行してきたのは、気の毒な人々をてっとり早く救済しようということと、さらには比較的余裕のある人々からじかに助け合う社会の連帯責任、いいかえれば、幸福な人と不幸な人との間における直結した財布の中の交流が、生活の近代化とともにもり上がってきたのは新時代の流れといえようか。
 最近、旅行先で見たことだが、学生が各グループごとに音楽その他の演芸パーティーを開催して、その利益金をそっくり募金にあてようとするプランがたてられていることを知った。これも近ごろでは新しいアイデアとはいえないかも知れない。しかし、街頭募金がもうすでに一般化された現在、このような方法で無意識のうちに募金の概念を植えつけ、しかも無意識のうちに所得の再配分をするということから考えれば、このプランも大いに価値あるものだと思ったことである。
 助けあいは単なる同情ではない。それは暗いよどんだ社会を、みんなの手でなくすることから始まり、才能があり、力があり、財力のある人たちが、ともどもに手をとって不幸な人々を積極的に救うことが最終の目的であろうと思う。

 年 賀 状

 毎年のことながら、お正月に、分厚い年賀状の束を手にして、一枚一枚ながめるのは実に楽しいものである。
 学窓を巣立ってから以来、一度も会っていない旧友、戦地で生死を共にしてようやく生き残った無二の戦友、今は遠く離れて暮らす幼友だちなど、年賀状から連想する昔なつかしい思い出が走馬灯のように脳裏に去来するからである。
 とかく、最近、年賀状は虚礼の代名詞のようにいわれたり、また、一方では、健康を代弁する使者だとするもの、極端な解釈としては、無さたを年賀状でごまかすいい気なもの……など、年賀状が描く人間の勝手ないい草は昔から数限りなく多い。
 昨年、ある友だちからこんな年賀状をもらった。″おめでとう、本年もよろしくたのむ″と、簡単で男性らしく書いてあったのはよいとして、添え書きがふるっていた。″年賀状、小さな借金思い出し″。これには恐れ入った。しばらく考えてみたが、借金をした覚えもなくまったく見当もつかない。
彼とはついこの間二回ばかり忘年会をやったことは記憶にあるが、それ以外のやりとりはない。たぶん、トソ気分に色そえる意味でよこしたのだろうぐらいに思っていた。すると、午後の郵便で現金書き留めが届いた。むろん彼からであったが、中身は彼の細君からである。″昨年末はデパートで奥さんに・…″と達筆で、しかもていねいにしたため○円を同封してあった。私はすぐ″借金が福をもたらす年賀状″と、領収代わりのはがきを書いて送ったことである。
 このごろは、一般に、現代用語を用いるようになったので、年賀状も時代の波に乗ってか、かなり変わってきたようだ。この友だちのように、しごく簡単なものから、学生なれば横文字を使ってみたり、筆無精者なれば郵便局の備え付けのスタンプで間に合わせたりしている。だが、男性は″謹賀新年″″賀正″。女性は″あけましておめでとうございます″が大半を占めているのは、やはり、年賀状に限って、戦前そのままの姿を維持しており、いぜん、漢文調が失われないというのも、簡素化されたとはいえ、新年の厳粛な気持ちが民衆の間に脈々と流れていることを意味しているのであろうか。
 ところで、もう一つ年賀状でおもしろいのは、ときどき差し出し人の氏名の書き忘れがあることである。特異な筆跡なれば頭に浮かぶが、たくさんの中だからとても取りつく島もない。これとは別に、受け取り人の住所や氏名を間違えたり、筆、ペン、スタンプ極彩色などをゴツチャにしたものや、一家総動員の氏名を連ねて、最後に犬とネコの名前まで書き添えたものなど、なかなかバラエティーに富んでいる。
 このようにして、新年の回り舞台は華やかに繰り広げられていくのである。新年のプロローグは年賀状であり、主役もまた年賀状であって、そこからほほえましい人生劇が始まるといってよい。

 生活にリズムを

 私は音痴に近いほど歌うことはへただが、音楽も聞くことだけは大好きである。このごろは、テレビ、ラジオが発達しているので、音楽はきらいだといっても、聞きおぽえで、知らず知らずのうちに音感がわいてこようというもの。
 音楽といっても、曲目がいろいろある。大別すると、クラシック、ポピュラー、軽音楽、歌謡曲などがあり、その中でもいろいろと細別されるであろう。それで、私の好きなものは何か(?)と、私の娘に尋ねてみると″セミクラシック″だという。だけど、自分としては、どの音楽を聞いても悪い気持ちはせず、むしろ耳を傾けるほうだが、最近流行しているポップスやジャズ、もうすでに過去のものとなりかけたツイストは、どうも苦手である。私がときどき、夜のコンサートで、ベートーベン、ブラームス、マントバーニなど、比較的叙情的なものに聞き入っていると、別室では、娘がパンチのきいたジャズをやっているテレビを見てえつに入っている。といって、私は現代ものがきらいかというとそうでもない。外国映画のテーマソング、例えば、禁じられた遊び、シェーン、
旅情、誇り高き男や、アルゼンチンタンゴなどは大好きである。いうなれば、ムード音楽がよい。それで、娘がセミクラシックだと評するのも無理はあるまいと思っている。
 で、こんな調子で一家そろって音楽好きときているから、夜ともなれば、テレビ二台、ラジオ二台のいずれかが二派に分かれて、チャンネル、サイクルをあさって、ハーモニーを演出するわけであるが、大正っ子と昭和っ子が二つの感覚で二つの画面に見入る……この時代感覚のギャップに自問自答しながら、ハタッとわれにかえることすらある。しかし、まずはチャンネルの争奪戦もなく、平穏といったところである。
 さて、人間はだれでもリズムを受けることによって、情緒中枢といわれる間脳が興奮する。この刺激によってこれが大脳の辺縁系(へんえんけい)へ伝わり、リズムの美を知るわけだが、この美にふれると、昼間のストレスを開放させ雑念を忘れ、思考中枢は休み、心の安らかさを取り戻すのである。
 だから、戦前を知る明治、大正、昭和初期の人々は、古い歌を聞いていると、当時の時代の流れや姿が脳裏に浮かび、あるいは牧歌的に、感傷的になって、あのころの平和に酔いしれ、または戦乱に打ちのめされたあの日あの時の思い出が、心の中に再現されてくるのを禁じ得ないであろう。
 だが、戦後のジャズを好むこどもは、こんな感覚の持ち合わせはない。音楽には年齢も国境の差もないと昔からいわれてきた定律を、まともにわれわれは信じてよいものだろうか、と思う。
 でも、私たちは、過去において、音楽とは情操教育を高めるためには一番よい手段だと教えられてきた。すなわち、どの年代に生を受けようとも、人間生活を楽しく送るためには、生活にリズムをもたせ、そこから生きる喜びを見出すことが大切だと、とかく無粋なわが家から一つのともしびを発見したものである。

 かわいいサムライ

 このところ、私は、歯痛のためある歯科医院へ通っている。医院では、いつも白衣を着用した医師二人と女性二人がいるが、医師は医療行為全般を行い、女性は治療の準備や跡片付けをやったり、それがすむと、医師の治療を見学したりしている。
 さて、世間一般では、病院、医院または診療所には、看護婦という名の女性がいることぐらいは子供でも知っているが、歯科医院にいる女性だけは、正式にいうと看護婦ではなく、″歯科衛生士″である。このことはあまり知られていないのでないか。それが証拠に、看護婦は″保健婦助産婦看護婦法″歯科衛生士は″歯科衛生士法″というレッキとした法律に基づいて名称が定められていて、目的、定義、免許権者、業務内容すべて別々である。しかし、客観的にみて、双方とも医師の行う医療行為の補助者であるということだけは同じであるが、法律で定められている業務は、前者は、療養上の世話または診療の補助などを行い、投薬、診療機械の使用などは医師の指示があった場合のみ行うことができるとあり、後者は、歯石除去、薬物塗布など、きわめて簡単な処置を、医師の直接の指導のもとに行うことができる‥…と区別されているのである。
 ところで、それらの名称の解釈は、字引きにたよるまでもなく、看護婦の″婦″はおんなで、歯科衛生士の″士″はサムライである。だが、法律上の定義はいずれも″‥…をする女子をいう″と女性に限定されているのに、歯科衛生士だけがサムライとは奇妙な話である。もう一つ不思議なことは″−看護婦法″というのは、もともと女性のみの法律で、男子禁制かと思っていたら、これも同法第六十条に″男子である看護人については・…看護婦に関する規定を準用する″とあり、男性容認の規定がちょっぴりここで付け加えられ、男女仲よく共存しているかっこう。すなわち、おんなの法律である看護婦法に男女両性が許されているのに反して、片や歯科衛生士法は男性を締め出している。なんとしてもややこしい。そのうえ、看護婦の免許権者は厚生大臣であるが、歯科衛生士は県知事だから、サムライよりおんなの方が上位にランクされているというヒガミさえ出てこようというものだ。
 最近のように、弁護士、行政書士、歯科技工士など元来男性独占であった職場に、女性がかなり進出してきたからといって、いまさら弁護婦、行政書婦‥…などといっていたら、それこそこっけいである。だからといって、法律をいちいち変えてゆくとなると、学校の教科書までがゴッチャになる。さりとて、助産婦を助産土として男性の進出を許そうものなら、世の女性はりゅうびをさか立て目をつり上げておこるであろう。
 私は治療イスで、こんなことをを考えていると、かわいいサムライが″終わりましたよ″といって、よだれ掛けをはずしてくれた。

 ハンコ論法

 学窓を巣立って社会人になるためには、日本のしきたりとして、ハンコを肌身はなさず持っていなければならないことになっている。そこで、高校卒業式に卒業記念品のかわりに、ハンコを一個ずつ贈った学校があったと聞いている。なかなか気のきいたアイディアだと思う。
 卒業式が終わって、社会に第一歩を踏み出すと、どこの職場においても、出勤するとまず出勤簿にハンコを押し、書類を整理するにもハンコを必要とするであろうし、給料の領収にこれまたハンコは欠かすことができないものになっている。だから、ハンコはわが身を証明するただ一つの物的証拠品ともなり、また、責任の所在を明確にする重要なものとされているので、現在では貴重品に準ずる大切なものでもある。
 ところで、このあいだ、はからずも公務員試験に合格したものからこんな質問を受けた。
「官庁ほどハンコを使うところはないと思うが、ハンコについての法律はどうなっているか」
 というのである。とっさの質問に、私はたじろいたが、どう考えてもハンコの特別法というのは聞いたことはない。一般行政上の独立した法律をみても″… 請求することができる″とか″…・届け出なければならない″とかあるだけで、それぞれの法律の施行規則については″…請求するには何々を記載しなければならない″とあるが、どれも署名なつ印をしなさいとは書いていない。
だが、不動産登記の申請書には、その施行規則によれば″署名とともに印鑑証明のハンコをおさねばならない″ことになっているし、民法や公正証書をはじめ、遺言にいたるまで、一応のハンコがなければ形式的にも不備ということなので、こんなところから印鑑証明のあるハンコが重要であるということがわかるのである。
 しかし、法律でしかと定められているもののほか、戸籍の届け出などは、署名なつ印となっているが、ハンコがないときは署名だけでもいいし、場合によってはポ印でもよいという解釈であるのはなんとしてもややこしい。
 で、ここでいうところの署名と記名の相違だが、署名は自筆、記名はゴム印でもよいということをつけ加えておきたい。
 さて、われわれが日常ひんばんに使う領収書は、なつ印しなければ無効であるように思っているが、これとて、署名が大手を振ってまかり通る資格がありとする民事訴訟法の規定があるからには、ハンコのみに固執することはないといえるわけである。しかしながら、例外かどうかわかりかねるが、郵便貯金はハンコを主体にしている。で、これは権利義務の形式論からは簡単に片付けられないようだ。
 結局、ハンコというものは、責任、義務、権利を、おおやけに第三者に証明する社会的な無言の利器だということになるであろう…と、私は若い公務員にこう答えたのである。

 いとこ会

 わが家の親類では、最近、″いとこ会″というものをやった。″いとこ会″というのは、読んで字のとおり、いとこたちが中心になって、その配偶者、その子およびおじ、おばを含む、ほとんどの血族、姻族が、親ぽくの意味をもって五年に一回の日帰り旅行をしようというのが、そもそもの取り決めなのである。
 第一回は、この趣旨にのっとり、おじの還暦祝いも兼ね、おかげで盛会のうちに終えることができた。そのうえ、幹事役をつとめた私にとっては、日ごろのぶさたがちの不信用も一挙に取り返したような気持ちになって、自己満足しているのである。
 第一回″いとこ会″が終わって、本年でちょうど五年目である。そろそろプランを立てなければ…・と思っていると、数人のいとこ連中から急に話が持ち上がり、とうとう今回も幹事役に私をかつぎ出してしまった。初回の経験で多少勝手もわかっていたことも手伝って引き受けたのであるが幹事というものは、うまくいって当たり前、ヘマをやると″年がいもなく″とか″大根役者の幹事だから″などという、全くありがたくない評価を浴びせられるのがおちなのである。
 だから、やせ馬に少々荷が重いことをじゅうぶん承知していたから、三カ月前から観光バスの予約やら当日のスケジュールの作成など思いつくままにメモをしておいた。しかし、そこは血筋に当たる身内のものばかりだから、適時適切の演出でよかろうとタカをくくっていた。
 本番になって、目的地は香川県F苑。五十余人の老若男女入り乱れてのバスの中。音痴の奇声に抱腹すれば、片や無芸大食の肥満男が″観光バス、ツルの一声芸の内″と即興の川柳を前置きにして、″キャー″と一声。続いて、若い世代の歌謡曲あり、詩吟があって、車窓に去来する春の景色にまけじと、車内は歌の花を咲かせながら、バスはリズミカルに笑いを運んで国道十一号線をまっし・ぐら。
 しかも、還暦を過ぎたおじ、おばの満足そうな横顔や、童心そのままの幼子の顔がバックミラーにうつし出され、そのかたわらには″ただ今婚約中です″とさっき自己紹介した甘いカップルがはにかんでいる。
 こんな車内風景を描く観光シーズンも、ここ三カ月がピークであろう。
 最近、慰安旅行で観光バスを利用する人たちがとくに多くなった。しかし、わが″いとこ会″のような親類一同というのは案外少ないように思っている。というのは、もともと親類の集まりは、結婚式、告別式、法要のみに限定され、その他はとかく疎遠がちなものであるからである。
 この意味から考えると、手前みそではあるが、われわれが計画し、実施した″いとこ会″は、全く有意義であったと心ひそかに喜んでいるのである。

 無  知

 昨年の夏、わが家のスピッツが、中田町の国道で輪禍にあってから、この人月でちょうどまる一年になる。お盆が近づいたので、ささやかなお祭りでもして、めい福を祈ってやらねばと思っていたところ、ついこの間、娘が″友だちからもらってきた″といって、かわいいスピッツをまた連れてきた。よく見ると、雑種がかかっていて本筋ではないようだが、生後一カ月ぐらいの小さいからだを、真っ白い毛がおおい、黒い目がとてもかわいらしいので、それからというものは、こどもはいうにおよばず、わが家のペットとして″車なんぞにひかれないように″と、幼いこどもにいい聞かせるようにして、用便のほかは門外に出さないことにしている。
 だから、小さな庭をチョロチョロするのが関の山で、ときおり池のぐるりを歩きなれない足どりで岩を伝っているが、そばで見ていると、どうもあぶなっかしい。危うく池の中へ落ちそうになってヒヤヒヤさせられる。
 そんな幾日が続いたある日、一家そろって夕涼み中、月夜のあかりに気をとられてか、あるいは家庭の一員になったうれしさのためか、いつものように喜んで池のほとりをさまよっていたとたんに、どうしたはずみか、池の中ヘドボンと落ちこんでしまった。驚いた娘は、まっさおになってズブぬれになった彼ロン君を、すばやく引き揚げ、ふろに入れたり扇風機をかけたりたいへんな騒ぎだった。
 そんなことがあってから、最近では、ロンは池の付近へはあまり行かないようになり、行っても慎重に、しかも注意深くなってきたようにみえる。
 さて、最近は十代の未成年者の犯罪が特に多くなってきた。国や関係筋では、非行少年の対策に、道徳教育をはじめ、いろいろな具体策を打ち出し、本県でもせんだって″青少年保護育成条例″を作って積極的に乗り出してきたのはよろこばしい。その矢先、東京では、このあいだ、少年によるライフル魔事件が発生して、現世代の人々に大きなショックを与えた。この大事件を、若い人々はどのように受け取っているだろうか。
 社会に順応する心の用意もなく、ただ自己中心に考える発作的な行動で、ありきたりの若い者共通の無知によるものだとして片付けられない。一種の社会的問題が伏任しているように私は思えてならない。
 すなわち″こうすればどうなる、こうすれば自分は、そして社会はどうなるのだ″という一歩先のことが心に働かなかったのだろうか。それだけ現在の十代の若い者は、社会的な無形に支配されて、自立するところの理性が欠けているのである。
 昔の人は″無知ほど恐ろしいものはない″といっていた。しかし、人間というものは、無知から自信という根をおろし、自信から完成された人間へと近づいていくのが長い人生の常道なのである。
 わが家のロンが、池の中へ落ちこんだことも、ある意味でよい試練であったと、それからはわが家のよき教訓にしているのである。

 いかものぐい

 ″いかものぐい″ということばがある。このことばを裏に返せば″浪費家″であり、解釈のしようでは″うわ気者″というような、あまりよくない代名詞に落ち着きそうだ。
 ところが友人の評によれば、私は典型的な″いかものぐい″であるらしい。これには私も謙虚に自省しているのであるが、どうも生まれつきの性癖であって、そのために一生貧乏神にとりつかれているようなものだと、なかばあきらめているのである。
 ここ数年来、わが家も消費ムードの波にうっかり乗せられてしまったのか、電気器具をはじめ、家庭用品を一つ一つ買っているのであるが、そのため、毎月の収支のバランスがくるい青息吐息の連続である。というのも、家内は何万円もする商品なれば、独断で買うハラがないから、どうしても私がミコシをあげなければならない。ミコシをあげると、私は遠慮なく買ってしまう。もし、その場で金の持ち合わせがなければ、店主にその意を伝えてあと払いの秘策をとるなど、あの手この手を使って″いかものぐい″を地でいくといったかっこうなのである。
 先日も、かねがねほしいと思っていた″太陽熱温水器″を電話で注文しておいたら、午後帰宅してみると、チャンと屋根にすわっている。″さすがは当世の商魂″とばかりにいくらか自己満足して、得意満面、事の次第を家内に話すと、目をつりあげて″いかものぐい″だという。意外なことに少々驚いたが、よく考えてみると、前もって相談しなかったことが悪かったようだ。が、本音はこの金で自分のレースのスーツをあて込んでいたらしい。まったくたわいない一幕であった。
 さて、わが国は経済成長のおかげで消費ムードをかり立ててきた。この消費ムードは悍馬(かんば)行くところを知らぬと思っていたら、最近不況ムードがしのびよって、世をおおってきたようだ。しかし、われわれサラリーマンには、さして風当たりは感ぜられないどころか、むしろ、生活水準の向上と、安定していく生活レベルを喜んでいるのである。
 だが、冷静に考えるなれば、現在の経済成長の影響で、一方に高給者ができたと思うと、一方にはウダツのあがらぬ低所得者層があり、片や底辺に泣くうらぶれた人々が、あすのかて(糧)を待っているというのが現状なのである。こんな世の中だから、今の世代にあって、かつての好況に酔う以前にだれが今の不況を予感したであろうか。
 ここ徳島市は、もう数日にして盆踊りの絵巻きが繰りひろげられるのである。さすが年を追うにしたがい、観光徳島の前景気は上々であるけれども、必ずや訪れるであろう踊り終わったあとの世情のきびしさ、はげしさを、盆以前のものと対比すると、現在の好不況の落差に等しいものがあるのではないかと思う。
 私が″いかものぐい″で自分ながらあいそをつかしたり、家内から大目玉をくうぐらいは、たかが夕涼みの話題にのぽるのが関の山だが、世の中にはまだまだ気の毒な人々がそこかしこにいることを知らねばならないと思ったことである。

 社会のこども

 ″子宝″とか″目に入れても痛くない″ということばが表しているように、わが国では古来、親が子に対する愛情の表現がまことにこまやかである。むしろ、この愛情が過度であることが原因して、数多くの社会問題を起こしていることを知り、また家庭悲劇の痛ましい現実に直面するとき、私はただ暗然とさせられるのである。
 先日、山陰から帰る途中、備中高梁駅からあたふたと乗り込んできた老母が、私の前の席にすわった。列車の中はむせ返るような暑さ。老母は流れる額の汗をタオルで無造作にふいていた。みるからにいなかの人らしく、素朴な服装であった。しかし、髪をキチンと結んで老人らしい薄化粧をしているけれども、なんとなく暗いカゲをもっていることがうかがいとられた。
 ややあって、老母から私に話をもちかけてきた。″どちらへ?″という。″徳島です″と答えたものの、老母はしばらく考えて″東京じゃなかったのですね…″と、ため息まじりの顔をして下を向いていたが、すぐ車窓に目を転じた。私は老母の所作から察して、ただならぬ愛惜のひらめきがあるのを読みとった。
 そんな初印象を通じて、しばらく話をしているうち、東京で開催される心身障害児大会に出席するためただ一人上京していることがわかった。私に行く先を尋ねたことも、旅は道連れという意図からであったのだろう。
 ひとしきり雑談のあと、急に老母は、肩を落として″あの子が早く死んでくれたらどんなに助かるだろう″ともらした。私は一瞬驚き、そして同情の余地を自分の胸に残したが、半面、何か割り切れない気持ちが私を支配した。わが子を愛するゆえに、早く死んでほしい、なんという悲しい矛盾であろうか。
 同じ人間に生まれて、母子が一生悲遇の宿命に打ちのめされる嘆き、加えて世間の冷たいまなこ、わが子を笑われ、敬遠され、拒否される悲しさ。それゆえ、問題でも起こせば村八分にされかねない。そうした寒々としたものが、現在の社会の一部に流れているのである。
 わが子を愛すれば愛するほど、わが子に対するふびんさが募るのは、この老母ばかりではあるまいと思ったものの″早く死んだら……″ということばは、わが子に対する飾り気のない、素直な気持ちであったかもしれない。
 しかし、世の中の子供は、みんな生きる権利を持っているのである。そして″あの心身障害児は他人の子″と表面はいわれていてもやはり″あの子はみんなの子″であると解したい。すなわち、どの子もみんな″社会の子供″という愛情と理解、それと社会的な連帯感を加えてゆけば〃あの子が長く生きてくれたら……・″という尽きない泉のような愛情に変わっていくのではなかろうか……。
 私はこのようなつたない思いつきを老母に話していると、車掌が岡山を告げた。私はジュースを買って老母に進呈し、ホームに降りると、老母は車窓に笑っていた。

 割 り 勘

 徳島市の内町とか富田町、栄町付近の横町を歩くと、やたらに小料理店、スタンド、すし屋などが軒を並べている。
 とかく、繁華街の裏通りというものは、安くてうまく、しかも肩のこらない庶民の店が多いものだ。
 昼は戸がしまって、どこがどこやらさっぱりわからない町筋であっても、秋の夕日が歩道に長いシルエットを描くころともなれば、ボツボツ赤い灯がともり、夜の蝶がそろそろご出勤と相成るのである。
 終戦このかた、社用族の料亭の出入りには変わりないが、今もって高級料亭は身銭をきらないご招待客が多いと相場はきまっているようだ。
 これに反して、小料理屋に出没する客は、たいていサラリーマンか、さもなくば庶民の食通連が多いように思う。
 事実、秋の夜長を食道楽をほしいままにしようと思えば、ご招待やお座敷では興がわかない。まして、おごられる側というものは、酒を飲んで一歩へり下り、話をして一目おくという、全く卑屈な心境に追いやられるものだ。
 だから、われわれはいつも割り勘という手段を選んで、すべからく、マイペースで、フェアで、しかも気持ちだけは天下を取ったつもりで、ささやかな庶民の宴を楽しんでいるのである。
 ところで、私たちが日常友だちといっしょにお茶を飲んだり、飯を食ったり、タクシーに乗ったりするときには、内心だれがそれを支払うか、ということが気になることがしばしばある。クラス会とか同窓会のように、最初から会費がきまっているものは案外気は楽だが、町で知人に偶然あって、だれいうとなく″一杯飲もうじゃないか″と誘った場合、年長者とか、収入の多い方が払ってくれるのでない限り、気になるのが普通である。
 そのとき、思い切って″割り勘にしようじゃないか″というとみんなホッとする。だが、それをいうとなるとよほどの勇気がいる。それほど割り勘というものは何かシミッタレのような印象を受けるのである。
 よく割り勘のことを英語では″オランダ式のおごり″とか″オランダ式の勘定″といっているように、オランダ人はもっともケチだといわれている。といって、日本流の割り勘がオランダ式になるかどうか。私はそうは思わない。というのは、自分の飲み食いは自分で支払い、人さまの勘定までは手がとどきません・・・・・と自覚しておれば、だれはばかることはないであろう。酒を飲みながら、この裏に何があるか、など考えていたら、それこそあとで抜きさしならぬことになりかねない。
 ″君子の交わりは淡きこと水のごとし″という有名な格言がある。
 ある人はこれを″君子の交わりに金銭はない″と解釈しているが、この真意が割り勘に通ずるだろうか。

 悲しき父

 昔から絵や小説に母をテーマとして取り上げたものは数多いが、父にそうしたものはあまり聞いたことがない。
 数少ない父ものから一つ二つを拾ってみると、菊池寛の「父帰る」とか、作者は忘れたが「かなしき父」などがあったが、いずれも、父としてのイメージは哀切きわまるものであったし、萩原朔太郎は「父は永遠に悲壮である」ともいって、父親の立ち場を嘆いた有名なことばがある。
 これに反し、一般に母の像を子どもからみれば、父親以上に愛着がもたれている。それはそのはず、物心つかない.幼子に「おとうちゃんとおかあちゃんとどちらが好き」とたずねたら、たいていの子は「おかあちゃん」と答えるであろう。
 そのうえ、現在では父親の威厳は昔と違って全く地に落ちた感じがする。昔は厳父だの、地震、雷…:・のおやじから始まって、一家の鬼はいつも父親だとされていた。
 だから、われわれが子どものころは、常に父親の前では正座し、ことばをつつしみ、礼儀を旨としていたことが思い出される。
 しかるに、近ごろの父と子の間がらはどうであろうか。父親の前で放歌し、足をなげ出し、はなはだしくは父親をひにくったり、ののしったりする場面をよくみせつけられる。
 むしろ現在では、父と子との間にあった壁は除かれ、よい意味の友だちづき合いのような関係に変わったので、家庭の空気はなごやかになったことは確かであるが、父と子の間において、なんだか一本クギが抜けたような錯覚に陥る時がしばしばある。
 このことがよいか悪いかは多くの批判もあり、教育の移り変わりの是非論にもよることであろうが、父親としての負け惜しみだとして一片のことばで片づけられない何物かがひそんでいるようにも思われてならない。こんなことをいうと、現代の子どもは世にもこっけいなものだと一笑に付するかも知れない。だが、ただ、昔にかえれとか、父親の威厳の虚勢を張れというものだとか、誤解されては困る。
 また、父親の子に対する愛惜は、母親のそれにくらべると、愛情の表現は違っても、今も昔も不変なものだと思っている。これは愛におぼれるようなことを意味しているのではない。柔らかい愛で包むような愛情、すなわち泉のように地底からふき出るような愛情は母親のそれとは同じことだといえる。
 昔の格言に「十人の子を養う父はあるが、一人の父を養わない十人の子もある」といって、子どもを戒めたことばがある半面「父となることはやさしいが、父であることはむつかしい」という父の歩むべき道を教えたことばもあった。どちらも、ひしひしと身にしみることばである。
 要するに、ほとんどの父親は、自分の子どもに対し、早く一人前になるのだよと、内心いつも祈っているけれども、万一期待を裏切られたならば、とたんに悲しき父につき落とされるのである。しかし、こんどは子どもが父親と同様な運命を必ずたどるであろうことを忘れてはならないと思う。
 以上は、かつて非行少年だったある青年が、近く結婚するというので、あるところでひざを交えて話し合った、私のつたない思いつきだったのである。

 メニュー

 東京から「食魔」と自称する旧友が訪れ「徳島の郷土色豊かな料理は何か」と問われたので 「アユとスタチぐらいで、とり立てていうほど変わったものはない」 とおよそ季節はずれで無責任な答えをしておいたが、ともかく百聞は一見にしかずとばかりにある料亭へ案内した。
 ところが、出された料理は、ハマチのサシミ、エビのテンプラ、酢のもの、スマシ、茶わんむし・・・・・といった全くありふれた日本料理であった。
 そこで、しばし料理話に花をさかせていると、当の食魔氏は 「料理そのものは、関東とあまり変わらないが、エビのテンプラはとても美味だ」という。外国人がよくいう、あのうまい社交辞令のようだが、なんだかすっきりしないほめかたに私はがっかりさせられた。しかし、出てくる料理を次々とたいらげるあたりは、さすが食魔というだけあって、その食欲には目を白黒させられた。
 そして次の日−。彼の希望もあって、昼食は中華料理に相談がまとまり、徳島駅前のK店へ行くことにした。
 元来、私は油ものをふんだんに使う中華料理はとても好きである。といって料理そのものの名前は知らない。だから、彼の好みの料理を注文すればよいだろうと、たかをくくって二人でテーブルを囲んだのである。すぐウエートレスがやってきて 「何にいたしましょう」 という。メニューに頭をつっ込んであれやこれやと品目をあさったが、むずかしい漢字ばかりが並んでいてチンプンカンプンでわからない。まさか、ラーメン二つとはいかないので、メニューの真ん中あたりを指さしてやむを得ず「これからこれまで」といって五種類を注文した。ウエートレスはペラペラと復唱して引き下がった。
 やがて、次々に出てきたのが魚を中心にして、これを油であしらったテンプラまがいのものばかりである。彼は異常な健たんぶりを発揮し鼓腹していたが、きのうに続くテンプラ攻撃にさすがの食魔氏も「胃がもやもやする」といって、とうとう夕食はぬいてしまった。
 実際、外国に行って、何が何やらわからぬままに、メニューを指さして、これこれと注文したら、スープばかりで閉口した話や、いい加減に野菜料理を注文したらアルティショ(朝鮮あざみ)が出てきて、その食べかたがわからず手を焼いたという実話などはよく聞くことである。わが国のお座敷で日本料理を食べるときには、特別に注文しない限り、たいていありふれた料理を出されるが、西洋料理、中華料理となるとそうはいかない。たしかにこれは料理の大きな盲点だと思う。
 外人専門ならともかく、全く不親切である。レストランや料理店は、通ばかりが出入りするのではない。例えば、マカロニ・グラタンなら「イタリアうどんのサラ焼き」とかいうように少し勘をきかせて、だれでもわかるような解説を添えておけば「ああこれだ」と、食欲もそそるだろうし、何より安心して店にはいれるというものだ。
 とにかく、空腹をかかえて店にはいる客もこれを迎える店にしても、何もオツにすますことはないのである。

 カレーライス

 昔から昼食は軽く食べるということに相場がきまっているようだ。だから、英語のランチということばも、今では日本語化しているが、その意味は昼食、軽食ということになっている。しかし、ランチといえば、グリル、レストランなど比較的高級な店を想像するけれども、われわれ庶民の間では、昼食は業務中なれば職場の食堂へ行くか、外出中なれば軽食堂かデパートの食堂といったように、気軽に食べられる店を選ぶことが多い。
 そして、そこで食べる料理は、あくまで軽食ということで、チキンライス、やきめし、カレーライス、ラーメン、ときにはどんぶり、定食など、全くありふれた食事を注文しているのであるが、わが県庁の食堂の土曜日の献立は、利用者が少ないせいか、たいていカレーライスが定食になっている。であるから、私はカレーライス一金三百円ナリを支払って、いつもランチを食べたような顔をしているのである。
 さて、カレーライスは簡単にカレーともいい、ライスカレーともいっている。私はふつう「カレー」といって注文しているのであるが、そのたびに、カレーライスがいいのか、ライスカレーが正しい呼び名なのか、という疑問に思いあたるのである。
 だれかが、ライスの上にカレーがあるからカレーライスが正しいのだ、といっていたが、これは家庭料理の場合をいっているのであって、食堂ではライスとカレーが別々に盛られているから、この解釈はどうもあてにならないらしい。
 といって、チキンライスのことをライスチキンといったら珍妙だし、またカレーうどんのことをうどんカレーなどというと、おそらく店員は目を白黒するであろう。
 では、どちらが正当なのか、とつまらないことながら手もとにある英和辞典を見ると、原名はカリドライス(CURRIED RICE)とあり「ライスカレーのこと」と注釈している。これから考えると、カレーライスに軍配が上がりそうだ。
 つまりカレーライスということばは、サラリドマンのことがサラリーマンであるように、いずれも日本製の英語であることにはまちがいない。
 それにしても、サラリドマンにしろ、カリドライスにしろ、よくもまあスマートに日本語化されたものだと、つくづく感心させられるのである。
 最近は、戦前とちがって、日常よく使われることばや名称を、英語、仏語などをまじえて、歯切れのよい、しかもカッコよい文字に置きかえられ、これがまた、雑誌などを通じて知らず知らずのうちに、われわれの生活の中にとけ込んでしまい、つい口をついて出てくるようになった。
 なお、また、法律関係にしても、戦後「クリーニング業法」そのほか数多くの外国用語を取り入れたものが公布されている現在、これらがさほど気にならないのも新時代における社会相といえようか。
 しかし、カレーライスのように、すでに日本語化したものは別として、文章やことばをことさらに粉飾したり誇示しようとして、やたらに今様用語を並べ立てると、かえって中身がうせてしまい、ときには噴飯ものになり、しかも真実性がなくなってしまうことになりはしないかと、近ごろちょっとこんなことを感じたのであった。

 古 い 友

 私の古い友人○君が数日前のある日の夜中、いわゆるポックリ病のため急死した。死亡時の状況を伝え聞くと、平素とても元気であった彼が、睡眠中異様なイビキ(?)を発して、医者の来診をまたず息を引きとったというのである。全くあっけない最期であった。
 その翌日、生家でしめやかに告別式がとり行われた。遺族の方々の嘆き悲しむ姿を見るにつけ、われわれ職を同じうする者も思わず目がしらの熱くなるを覚えた。
 彼を知ったのは昭和二十八年の春。他課から転勤してきて以来十数年間、勤務精励にして性格温順、余暇をみては尺八になじみ、書道を学び、カメラをいじるなど数多くの趣味をもっていた。いうなれば典型的な公務員であると評してもよい。その彼が一夜のうちに不帰の客になったのである。
 さて、キケロの「友情論」 のなかに、次のような言葉がある。
 「友情に関しては、他の事物のようにあきるなどということがあってはならぬ。古ければ古いほど、あたかもブドウ酒の年代を経たものと同様にますます甘美となるのが理の当然で、世間でいうように、友情のつとめが果たされるためには、いっしょに相当量の塩を食わねばならない、というのは本当である」 と。
 なるほど、一生において、古い友がある者は、いろんな意味でうるおいがあり幸福である。これは、さもありふれたことのようであるけれども、古い交わりをなしとげて、自分の心を打ち割って話すことのできる友というのは、そうたやすく作れるものではない。すなわち、友とは作ろうとして作れるものでなく、作らずして作るものであるということもできよう。
                          
 昔から深い交わりをもつ友のことを、金蘭(きんらん)の契りとか、刎頸(ふんけい)の交わりといわれているとおり、友情については数多くの名言名訓が残されている。それほど友というものは、人間社会において、老若男女をとわず、いろんな面で密接した無形の役割りを果たしているものといえよう。
 ところが、世間では、古い友をいつまでも大切にしている人と、絶えず友をかえている人がある。
どちらが良いか悪いかは、その時の判断にもよることであろうが、概して古い友は地道なつながりをもち、かつ年老いても友情の余韻を残しているけれども、新しい友はそれらのふくみが備わっていないといえるであろう。というのは、ある年齢に達すると、友人を選ぶより、友人に選ばれる場合が多いことにも原因しているのであろうか。
 しかし、古い友の中で、学生時代の友人であるからといって、直ちに現在も友人であるということは即断できない。それは、ただなつかしいというだけで、真の友情に結びつけることはちょっとむずかしいのでないか。
 そうすると、真の友情をつちかうためには、その友が古ければ古いほど大切にしなければならないという心のおきてが生まれてきそうである。
 フランスのモラリストであるジュベールは「友人が片目なら、私は友人の横顔からながめる」といっているが、このような慈愛と許容があればこそ、ほのぼのとした友情が生まれてくるのかも知れない。
 私は今、大切にしなければならない友を失って、つくづくこんなことを思ったことである。

 読 書 欲

 私の青春時代は、外地で八年間の軍隊と軍属生活を送ってきたので、終戦までは満足に読書をする機会もなく、いうなれば読書から見放された時代であった。
 だが、外地では、時おり慰問にはいっている月おくれの雑誌などをよく見せてもらっていたが、そのほかの書物は現地ではなかなか手にはいらなかった。
 そのころ、軍事作家であった故火野葦平が「麦と兵隊」を書いて好評を博したことがあった。当時はこの本がベストセラーだったので、連隊本部の図書室に備えつけられていた数少ない書物の中でも、もっとも人気があり、先を争って読まれたものであった。
 これらほんの一例に過ぎないが、こういった読書欲を満たされない時代を送ってきた私としては、今では、もうこれらのことが過去の単なる思い出となってしまって、そろそろ私の記憶から遠ざかろうとしている。
 それから四十余年。今ではどこの店頭をみても、本だなにはぎっしり書物が並べられている。自分がほいしと思えばたいてい求められるであろうし、また、図書館へ行くと、いくらでも私たちの読書欲を満足させてくれる。つまり今では私たちの周囲にはいろんな書物があふれ、むしろ、これらの書物そのものが、私たちに読書する機会を存分に与えようとしている感じさえするようでもある。
 だから、私たちが希望すればどんな書物でも買える現在の世の中と、やっと求め得た書物をいくたびか読み返して、その書物の髄までつかもうとしていたあの戦争中の読書欲とを比べ、どちらが読書の効果があったかといえば、それは後者の方だと思う。
 というのは、何ごとによらず、満ち足りたものよりか、不足しているときの方が、精神面から考えると、より好ましい状況ではないかと思われるからである。
 このことは少年時代の教育においてもいえることではあるまいか。
 私はある雑誌のグラビア写真に、りっぱな部屋の中で豪華なおもちゃに埋まっている坊やを見たことがある。おとなの私の目からみれば、その坊やはさもおもちゃにあきて、どこかへ逃げ出したいような顔つきをしていた。突然、私は親バカの見本をみせつけられたような気がしたものである。
そしてこんなこどもは決して幸福でないどころか、いつも愛情をおしつけられて苦しんでいるようにも思えてならなかったのである。
 もちろん親がこどもを愛する気持ちはわからないではない。しかし、こどもの自立自営の精神を育成する意味から考えると、こうまで心を配らなくてもよいのではないかと思ったことである。
 秋は物思う季節である。それとともに読書の季節でもある。といって、秋がもつ事象が無理やりに読書をすすめるのではない。それは、その人がもつあくなき読書欲が、みずからの欲求を満たそうとするためのものであり、またそれには虚栄のかげもなく、ただ無垢で自然的でありたいものだと思う。

 盆景の美

小松島市日峰山ろくに桂林寺がある。この古刹(こさつ)は室町時代に足利尊氏の命を受けて建立されたものといわれる。だから、寺の全容はいかにも古色蒼然(そうぜん)としており、幾百年の風雪にたえてきたであろうこけむすいらかの一つ一つを見れば、昔日の余情がしのばれ、ことに寺の周囲に林立する巨木は寺全体をすっぽりおおい、樹間から隠見する寺の幽玄なたたずまいは、さながら古い歴史を無言
のうちに物語っているようだ。
                 
 この寺の東側には岩清水が流れ筧(かけい)を通じて寺の裏庭の池に落ちている。その谷にそって参道を登ること三十分。頂上には阿波三峰の一つ、日峰神社がある。その向こうには小神子が海にひらけ、徳島市の大神子と背を合わせて指呼の間に並んでいる。
 この風光明美な日峰山付近一帯は、ずっと前から風致地区に指定されているのだが、珍しいことに、山のところどころには水含石が発掘されるということで、四季を通じて、一つ二つの小石を背負って帰る愛石家をよく見かけるのである。このことで思い出されるのは、数年来の全国的な名石ブームである。ことに、本県から採石されるじゃもん石、五色石、とら石、梅林石などをたくみに研磨して、石本来の質を生かそうとする愛好者が多いのが目立つ。一方、水含石に水をふくませ、こけをはやし、小さな木を植えて観賞する、いわゆる盆景の美を楽しむ人々もかなり多くなってきた。
 この盆景の美というものは、江戸時代の盆庭、はち山、さらにさかのぼって鎌倉時代の絵巻にも見られる盆栽の寄植物から出たものといわれるので、水盤に入れた水含石の美しさも、こうしたことから発祥したものと想像されるが、現在もなおこれらの素朴な庶民の芸術を愛そうとするゆえんは、最近、生活のうるおいと趣味をかねて小庭園を造る風潮や、団地アパートのテラスガーデンに盆栽を置き、観葉植物などのような比較的ミニチュア(縮小画像)的な自然そのままの美を愛好する人々がふえてきたせいでもあろうか。
 人が自然美を愛する−これは人間だれもがもつ思索と現実を直結させたところの、美に対するあらわれでないかと思う。その過程においては、自然の姿に人為的に手を加えて自然美をよりいっそうあらわそうとすることもあれば、自然の美そのものの良さを長く保存しようとするものもある。
 しかし、自然の美そのものの価値というものは、暴風雨で荒れた野も、火事で焼けた焦土も、やがては草の芽がもえ、かれんな花を咲かせるのと同じように、光りと生命と美、これに愛が加わってこそ、いっそうの輝きを放つものであろうと信じている。
 そうすると、日峰山系の自然美に、神社、寺、谷などの客体を加え、そしてまた、水含石に水を与え、こけをはやして、美をよみがえらせようとするすなおな心は、人がこの世に生をうけてから、学問、教養、品格などを身につけて、少なくとも、より高度な人間形成を行おうとすることに、どこか似ているところがあるように思われてならない。

 夢の着色版

先日、私の職場で、三、四人の職員と正午の休憩中、話をしているうちに「夢」の話になった。
 突然A君は「僕は色がついている夢をみた」と得意そうにいった。
 なみいる連中は、この発言には一瞬目を丸くした。
 なるほどだれでも夢はみる。赤ん坊でさえ、まぶたをピクピクさせるあの現象は、たしかに夢をみているに違いない。
 しかし、元来、夢というものは写真でいえばモノクロームのように色がないのが定説になっている。
 だが、何かの本に、あるラジオドクターは「夢にも色がついている場合もある」と書いてあったことを記憶している。しかし、私は色のついている夢は、いまだかつてみたこともなければ思ったこともない。が、A君の説のとおり、カラー写真のような天然色の幻想的な世界を夢で見ることができたら、なんとすばらしいことであろうと思った。
 A君はことばを続けて「それは、その前夜に喫茶店でカラーテレビをみた。すると、翌朝数分間であろうか、ちょうどアメリカの平原に夕日が輝くシーンだった」と、夢を再現するような話をしていた。
 もともと、私たちが夢をみた当座は、おぼろげながらその筋を断片的におぼえているような気もするが、時間が過ぎるとすっかり忘れてしまう。これは脳波によって、その人の記憶の一角が魔術のように現われてくる奇妙な脳のいたずらとされているそうだから、私たちがみる夢も、一コマのパターンとして描かれるが、すぐうたかたのように私たちの脳裏から雲散霧消してしまうからであろうと思う。
 それで、A君が着色の像をみたというのも、たぶん夢の魔術にひっかかって、夢をみたことはみたが、目がさめてからの追想がいかにもロマンチックだったので、例えば、まず、白黒で描かれた絵に対し、突然自分で彩色したようなものでなかろうか− と、まるで夢のようなことをいったら、A君は「他人の夢を分析することは、痴人の前で夢を説くのと同じだ」といって、私はていよく肩すかしをくったのである。
 それはともかくとして、夢の材料というものは、一見私たちとなんの関係もないような情景や人物が現われてきたり、または、どこかに置き忘れてしまった、ごく小さなものがとっぴもないときに現われて、私たちを楽しませ、驚かせ、果ては奈落(ならく)のドン底に押しこんでしまうなど、いろんな夢の悲喜劇をかもし出させるのである。
 しかしながら、白黒、彩色いずれにしろ、夢は昔から私たちに希望と喜びをもたらせてくれるシンボルにたとえられ使用されてきた。
 人それぞれの実現が夢であるなら、幸福で住みよい社会を築くのも私たち庶民の夢である。
 世の中には、夢をかなえたくとも、自分の力ではどうすることもできない人々がたくさんいる。
 これらの人々を、みんなが赤い羽根を通じて助ける心こそ、生きとし生けるものの務めであるとすると、A君がいったように、より美しい夢の着色版のほうがいっそう幸福であるかも知れないと、私は最近ちょっとこんなことを感じたことである。

 娘の結婚

 世間では、おやじは、娘を嫁にやるのに、いいしれないさびしさを覚えるもの−とよくいわれているが、母親はそれほどの感情の動きを経験しないらしい。また逆に、母親はむすこの嫁について、とても神経をとがらせるのに、おやじはさほどにも考えないのはどうしたわけだろうか。
 結婚にかぎらず、母と娘というものは、いつも意気相殺合しているといおうか、ことばにいい表せないような親密感が強いものである。これとは反対に、父とむすこの関係になると、いかにもサラリとして、いつも物の割り切り方がてんたんであり、あまり心にとめないのが一般的である。
 だが、実感として、娘を嫁にやる場合は、だれだっていちまつのさびしさを感じるのは世のおやじとしてはかくしようもない事実であろう。
 そのことで、小説家井上靖は、ある結婚式に招待されて「娘を嫁にやるということは、きわめて高級なよろこびであることが最近やっとわかりました」といったそうである。これを読んだ私は、その「高級なよろこび」ということばの意味がピンとこなかったのだが、あとで考えてみると、結婚ということは、どこからながめてもただ、めでたいもの、楽しいものという、ありきたりのめでたさを、高級という文字で至上のものにしたのであろうと思ったのだが、その半面、とつぎ行く娘のおやじの心境としては、結婚に際して一種の傍観者としてただひとり立たされたさびしさをねぎらう意味も含めて、結婚のよろこぴを、さらに美化しようと試みたものに違いない…と、私はこのように解したのである。果たして、おやじというものは、娘の結婚に対してそれほど心のわびしさを感じるものだろうか。まさに、考えようでは掌中の玉を奪われるような、さびしさ、やるせなさに打ちのめされる心境に立たされる場合があるかもしれない。
 先日、私の知人から、娘が結婚するから来てくれ、といつもに似合わぬ乱筆で案内状をくれたので、奇異(きい)に感じつつ行ってみると、当の知人の姿が見えない。これはおかしいと思って奥さんにたずねたら、急に仕事ができたからといって外出しているという。娘の結婚式直前におやじが姿を消すとは奇妙だ、と私はその時、あらぬ想像をしたものだったが、あとでこっそり知人の心をさぐってみると、やはりさびしさのため、居たたまれなかったので仕事を装ってしばし外出していたのだ、と知人は私に、こう告白したのであった。私としては知人の心境はわからないではなかった。しかし、あれだけ明朗な男が、かくもこんなに神経質になるとは、全く不思議でならなかったのである。
 万一、この知人が結婚式の席上において「高級なよろこび」ということばをマジヨリティに解釈したとしたら、知人はそのときどういう意味に解したであろうかと、私は知人の立ち場になって、こんなことも考えてみたりした。
 しかし、母親であれば、結婚を一生の楽しい意義ある転機として、一度は必ず経験しなければならないことが常に頭にあるから、案外割り切っているけれども、おやじというものは、娘が結婚式をあげる、せっぱつまったときが来ないと、あまり切実に考えないのが普通でなかろうか。
 私もかっては娘を嫁がせたおやじである。嫁がせたときのさみしさを今ここで反芻(はんすう)するのはもっとさみしいことかもしれない。

おわり

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