ホームエッセイほろ酔い人生

ほろ酔い人生

A Life like A happy Drink

●夫婦ぜんざい

 コケの生えた夫婦

 ″ノドもと過ぎれば熱さ忘れる″ということわざがある。とかく人間は勝手なもので、マンネリ化すると物のありがたさを忘れがちである。
 よい例が空気と水と健康がある。その次にしいて挙げると、亭主からみれば女房、女房からだと亭主がそれに当たる。
 結婚当時は蜜のような甘い夫婦生活でも、長い年月を経るとその新鮮さも失われてしまう。早い話が、みずみずしい果物も日がたてば味もそっけもなくなってしまうのと同じで、たけてしまった夫婦は次第に、色あせて来るからいけない。
 亭主が勤めから帰った途端、
「お帰りなさい」
 と犬が尾を振るように迎えに出ていた新婚当時の女房も、夫婦生活にコケが生えてくると、
「帰ってたの。おそかったわね……」
 と昼寝から起きて来たような顔に大あくびをしながら、面倒くさそうに言う古女房を見れば、いくらノンビリ亭主でも″こんちくしょう″と、頭にカチンとくるという。
 こんなとき、浮気虫のある亭主なら「仏頂面の古女房より、ピチピチした若い女性」 にこころが移る。そして″スキあれば″と夜な夜なよからぬ紆計(かんけい)をねりはじめる。
 夫婦の危機は、こんなひょんなスキ聞からもれて来るようだ。
 色あせた夫婦といえば、いつぞやこんな話を、酒のサカナにして臆面もなく私に話をしてくれた知人がいた。
「ボクんちの女房はね」
 とちょっぴり得意そうな切り口上で、
「まあ、聞いてくれよ。ツンツルテンで風呂から出て来た女房を見て君どう思うかね」
 のっけからこんなことを言う。私は細君の風呂上がりの風景を思い浮かべた。″この夫婦、コケが生えてるわい″と、心の中でクスツと笑った。
 すると知人は、それを読みとってか、
「三十年も一緒に暮しているとこうも変わるものかね。君んとこはどうだい」
 とホコ先をこちらへ向けて来た。
 これはいけないと思って、
「慣れるとだれでも同じだよ。ポルノ女優だって慣れたら、裸になるぐらいへっちゃらだろうと思うよ…」
 ポルノにかこつけてこう答えた。
 ″夫婦は空気のようなもの″とはだれもが言う。なるほど、コケの生えた夫婦だと、亭主が女房の箸で食事をしようが、茶わんが間違っていようが、全く痛くもかゆくもない。これが他人様だと、
 「この箸違うじゃないか」とくる。そこらを″空気のようなもの″というのだろう。
 さきの知人の話も同じこと。たとえ、女房が素っ裸になって亭主の前に立っても、古女房は別に羞恥心もないらしい。蛙に小用である。片や亭主は亭主で、眼をパチクリするでなく、
 「ああ、またか」
 と思うくらいで、ズンドウスタイルなんぞに今さらなんの魅力もあるまい。全身どこもかしこも垂れ下がり、しかもたるんでいる姿。見れば見るほど哀れになる。知人がことさらに言った素っ裸スタイルの真意がよくのみ込めた。
 こんなところから″タタミと女房は新しいのがよい″といった無責任な言葉が生まれて来たのではあるまいか、と思った。

 夫婦たがいに老いてしょぽくれても、どこかに新しいものを秘めておきたいものだ。
 亭主なら、新しいラフなスタイル、女房ならお化粧やヘヤースタイル、そしていきなアクセサリー。
 中年には中年にふさわしいグッドアイディアがあるはずだ。
 たとえコケが生えたといわれても、そのコケをコケにしないところに、果てない夫婦の魅力がにじみ出るのではないかと思う。

 離  婚

 ”結婚は急いでするが、後悔はそろそろやって来る”という言葉を聞いたことがある。
そういえば、当節の娘さんのほとんどは「結婚したい」と言う。まことにもっともな話だが、結婚はあまり急いではいけない。理想と現実の差の大きいことを悟るべきである。
 古い統計で恐縮だが、昭和五十一年の離婚総数は全国で124,512組だったそうで、四分十
四秒に一組が結婚をポイにしたと記されている。この数は離婚件数だから、離婚当事者はその倍数になる。前年の昭和五十年に比べ5,400組も増加しているといわれるから、すごい離婚現象である。離婚までがアメリカナイズになってきたかと思う。

 元来、夫婦というものは傷をなめ合うようなものだといわれている。いうなれば、いたわり合う仲である。だのに、ほれたはれたで結婚した夫婦が、性格が違うの、趣味が合わないの、嫁と姑の仲たがいだの、条件が違うのと、いろんないちゃもんをつけて離婚するケースを耳にする。
 離婚劇を第三者から見れば、さぞかし、ケンケンポンポンのけんか別れだろうと思うが、最近は案外すんなりと別れるようだ。さしずめ「昨日までは夫婦だよ、今日からは他人だよ。パイパイ」
 といったあんばいである。いわゆる、アクのない、すっきりした協議(合意)離婚である。
 これだと、再三結婚し離婚してもキズは少ないであろうと思うものの、それは真相を知らぬ者の言い草であって、当の本人はやはりあと味は悪いに違いない。
 まして、恋愛や結婚のことでキズを受けるのはたいてい女性である。ことに、二〜三年同棲生活をして子供がある場合は、普通その子は女性が引き取ることになる。すると、女性の離婚後の苦労は目に見えている。
 離婚の話になるとよくタレントが引き合いに出される。結婚披露宴を盛大に挙げたのがついこの間だと思ったら、いつの間にやら週刊誌が嗅ぎつけて二人の秋風を報じている。読むとスキャンダルだったり、性格の不一致による別居だったりである。

 世間には、やたらとのぞき見をしたがる癖がある。特によそ様の生活内容やつき合いなど、もろもろのプライベートについて聞き耳を立てがち。つまり「これ秘密よ」式のうわさ話は、女性の専有物みたいになっているが、恋愛ならまだしも、離婚は伏せがちなのに、″ささやき千里″とパッとかけめぐるからいけない。

 ″夫婦喧嘩は犬も食わぬ″といわれるほど、夫婦のふれあいは微妙にして、ひとりよがりなところがある。
 がしかし、恋人の仲でいったん溝ができるとそう簡単に消えることはない。男女どちらかの仕草が鼻につきはじめ、癖、語調までがシャクの種になり、それが耐え切れなくなれば、もう救いようがなくなる。おしまいは破局と相成る。
 たまには夫婦間に仲介人が入って双方の言い分を聞いても、恐らく平行線をたどることが多い。
 うっかりすると、その仲介人が何かを画策をしているのではないかと誤解されたりする場合がある。こうなったら離婚あるのみである。あっさり別れるべきであろう。

 ″男(女) ごころと秋の空″と言われたり、片や″惚れて通えば千里も一里″と言われるなど、男女の心の幅といったものは深遠にして複雑である。何かの拍子で″・・・・・千里も一里″が″・・・・・秋の空″ に豹変する場合があるからご要心である。
 そのときこそ離婚のかげりである。離婚を退治するのはほかでもない、あなたたち夫婦である。

 亭主は大いに寝ころべ

呆(ほう)けたような中年亭主が寝ころんでテレビを見ている。そのテレビも二番せんじのチャンバラ映画。かっこいい遠山の金さんの胸のすくような捨てせりふに、にっこりほくそえむタレ眼のお父さん。画面が単調になると、顔をゆがめて鼻毛を抜いている。
 この姿を見て女房は、
「この人と一緒になって、かれこれ二十年になるけど、いっこうに出世もせず、いつまでたってもうだつが上がらない」
 とあくびまじりにつぶやく。
 「それにしても、うちの亭主、しよぽくれているけど長生きしそうだわ」
 やはり亭主を頼りにしているようだ。
 よくある風景だが、長く夫婦をやっていると、女房がグチるのも無理はあるまい。

 そういえば、近ごろの夫婦は長生きをするようになった。が皮肉にも、亭主は女房より早くこの世にグッドバイしてしまう。
 「馬鹿息災なこの亭主もいずれは私より早く死ぬんだわ。残り少ない余生だから大切にしなきゃ」
 と女房は思い直して、ときたま殊勝なことをのたまう。
 しかし、腹にいちもつを持つ女房は、この亭主が死んだら・・・・・と、亭主の死後のことに思いをめぐらす。つまり死後の設計であるが、たいていの女房は、良きにつけ、悪しきにつけ、住居のこと、金銭のこと、子供のこと、遺産のこと、果てはまかりまちがえば再婚できるかも、といった小悪魔的なことを内心考えている女房もいるとか。

 それにしてもここ数年老人の死因ははっきりしている。ガン、循環器、脳卒中が一番多く、交通事故、老衰、自殺もかなりの数である。だから、年をとったら、ほとんどの男性はこの病気のどれかで、さらば諸君、さようなら、と相成るわけだ。
 ところで、平均寿命男性三十二歳、女性二十七歳、これはどこの国の平均寿命だろうか。わが国の、今から七八○年ほど前の平安時代の平均寿命である。このころの死因は、五割が結核、二割が脚気だったそうである。結核は今でこそ少ないが、戦前では亡国病といわれていた。
 優雅であったはずの平安時代の寿命が平均三十歳だったとは想像もつかないが、当時の絵巻物による貴族の顔はふっくらとしている。ある医師はこれを下ぶくれという。脚気の症状をそのまま書いたからだろうか。
 また、平安時代の西日本に飢餓が襲ったとき、当時の貴族は栄養失調でかなり死んだと歴史家はしるしている。いくら優雅でも、腹がへっては、である。恐らく栄養失調と業死(狂い死)で、死者が巷(ちまた)にあふれたことだろう。

 かなり前「亭主の家出」というドラマが放映された。また、有吉佐和子の小説「恍惚の人」がベストセラーになったこともあった。
 ご承知のとおり前者は中年男性、後者は老いの男性の悲哀を描いたものである。両者共通するところは、疲れ果てた男性のなれの果てのような感じがしてならない。さみしい限りだ。
 女房や子供のためにせっせと働き、家庭でくつろいでテレビを見ている図を、呆けただの、鼻毛だの、しょぼくれただのといぴられては亭主こそたまったものでない。
「弱き者よ、なんじの名は女なり」 の女は、今では男に置き換えてもよい、という声がちらほらである。それだけ世の亭主は疲れているのだ。自由がほしい、という中年族の切なる願いもよくわかる。
 世の亭主よ、大いに寝ころべ、である。

 夫婦の呼び名

 夫婦の呼び名にはいろいろある。
 当節の若い夫婦なら「パパ」「ママ」が一般的でナウな呼び方だそうだが、現代の感覚からすれば、この呼び方は四十歳ぐらいまでなら、さしておかしくはない。しかし、人前で娘が父に「パパ」と呼ぶのはどうか。並いる未知の人だと、二人の顔をしげしげながめて、父娘かどうかの疑惑の眼を(まなこ)向ける。似ていないと 「お盛んなこと」 と勘ぐるだろう。
 普通、人前では女房が亭主のことを「主人が…」といい、逆の場合は「家内が」「うちの女房が」であるが、時として女房は「山の神」になり、「ママ」になり、「カカア」になり、「おんな太閤記」でないが「オカカ」 にもなる。
 それが家庭内だと「父チャン」「お父サン」「母サン」としおらしい。
 小説家田辺聖子さんは著書に亭主のことを、「同居人」と書いているが、彼女は「主人」という言葉がなかなか出ないという。結婚後しばらくは「カワノサン」と言い、子供がいても、「お父さん」とは呼びづらいという。人さまざまな思いがする。
 子供が父を呼ぶのに「オヤジ」「オヤジサン」「オフクロ」「オフクロサン」はむすこ用で、娘は三十歳を越えても「父サン」「母サン」、たまには「父チャン」「母チャン」と呼んでいる家庭がある。
娘だったら「チャン」と言っても、さほど違和感はない。むしろ、女らしさ、つつましさがある。
 テレビによく出る呼び名に「タケオ」「タケオサン」と、ズバリ名前を呼んでいる若い夫婦がいる。
また「兄チャン」なんていう、ママゴトみたいなのもある。
 江戸時代の戯作風なものに、亭主のことを「宿六」「オッサン」と、なんだか亭主をコケにしたような言葉があるが、落語ならまだしも、ノーマルな呼び方ではない。
 三文小説にちょくちょく出る呼び方に「野郎ども」「敵(テキ)」というのがある。これは面白い呼称だが、多分に野卑の域を出ない。
 「野郎」は男性間でよく使われる「男」の総称であって、この言葉は女性間では「彼女たち」という複数用語になっている。
 ある小説家は、随筆に亭主のことを「相棒」と書いている。文中「相棒」を「愛棒」と聞き違えたある女性は、「亭主のことを愛棒だなんて…・フフフ。でもうまい表現ね」
 と腹をかかえて笑ったという。
 すでにご承知のとおり、社会保険各法は、夫婦のことを「配偶者」とうたっている。この呼び方(一人称) は法律用語だが、さりとて、「木村さんはご在宅でしょうか」
 という電話での問いに、
「配偶者はいません」
 こう使ったらヘンテコリンになる。
 お上品とはいかないまでも、しなを作って訪問者に、
「宅は、ただいま留守でございますの」
 と言えば、チラリ優雅に聞えそう。
 私はあまりかしこまるのは苦手なので、平素は女房を「おい」と呼んでいる。ちょっぴり亭主関白イズムだが、相手は五十の坂を越しても「父チャン」と言っている。この呼び方は、どちらが灰になってもなお続くと思うものの、相手が灰になっているのに「おい」とはちとおかしいことにもなる。
 とかく世の多くの亭主(私を含めて)は「女房が死んだら…」と、よからぬ企みをしているらしい。さしずめ、こんな男は早くこの世からグッドバイするかも、である。

 恋を知らない無粋男

戦争中に青春時代をおくった者から見れば、現在の若者は男女の交際がオープンで、しあわせだと思う。
 私は毎日某高校の横を通って通勤しているが、夕暮れどきの校庭で、二人連れの生徒がうろうろしているのを時折目撃する。
 それも何となく寄り添っている感じ−。
 薄暗いし、遠方だから、何をしているのか、こちらからはさだかではない。
学校でさえそんな態(てい)たらくだから、私の通勤途中の遊園地や駅舎付近は全くなっとらん姿を、イヤというほど見せつけられる。
 私などの野暮天がそばを通っても二人は微動だにしない。のぞいてもいないのに、
「ポクたちは目下有頂天なのだ。前をよく見てさっさと消えてしまえ」
 と言わんばかりである。
 そんなシーンをそこかしこに見るにつけ″男女七歳にして席を同じゅうせず″で、がんじがらめにしめ上げられたわが青春時代に思いをいたし、うたた感慨無量である。
 そういえばその昔、私たち通学途中の自転車隊は、女学生を追い越すときは横目でテラッと見るだけ。言葉を交わすなどもってのほかで、先生に現場を見られたら即刻退学処分だ。
 おまけに喫茶店もうどん屋もご法度。放課後は空腹をかかえてわが家へ一目散である。
 そんなしつけを強制されていたこともあって、今の若者のネチャネチャした格好を見るにつけ、うらやましいとも、シャクにさわるとも、ぶんなぐってやりたいとも思わぬことはないが、いかんせん、今のわが身は恋愛などひち面倒臭いし、そんなファイトもない。
 ところで、当節の夫婦、ことに新婚さんの仕草はどうか。
 これまた昔のことで恐れ入るが、昔の新婚さんが街を歩くときは、女房は″三歩下がって″の掟(おきて)を無言のうちに教わっていて、決して寄り添って歩かなかった。
 ご両人の心のうちは一緒に並んで、しかも現在の恋人のように手をつないで堂々と歩きたいところだが、到底そんなことは許されない時代だった。それほど社会環境がきびしかった。確かに″男女七歳・・・・・″だ。
 今様の恋人風景のように、手をつなぎ、肩に手をかけ、両手を腰のうしろでからませていようものなら、「気が変じゃないか。まっ昼間からあれだと、夜はどんなことやっているやらわからん」
 と半ば理不尽で、しかも岡焼き気味の罵声を浴びせていた当時を思い出す。
 それほど戒律というか、不文律というか、男女のつき合いはかくのとおりだった。
 だから私たち生徒は、碑肉(ひにく)の嘆(恋をしたくてムズムズする)どころか、濃厚な恋愛などは一般にタブー視されていたから、幼児期はともかく、楽しかるべき思春期をとばして、ポッと大人になってしまった感がしてくやしい限りだ。
 まして、当時は帝国主義、軍国主義、全体主義はなやかな時代であったから、一部の反逆児を除いて、恋につかれただの、もの思う青春だの、恋に胸はずませるだの、恋に身を焦がすだのの、いわゆる身をとろかせるような文弱さは死文みたいになっていて、とんと耳にしたことはなかった。
 いうなれば、その時代の若者は誠実にして実直、純情無垢な好青年たちばかりだったように思う。
 そんな環境下だから結婚は見合い一点張り。親が決めた相手なら問答無用、ただちに夫婦になれ、ということに相成る。
 こんなことを今の若者に話したら、われわれのことを″歌を忘れたカナリヤ″と冷かし、また″恋を忘れた不粋な男″と、まあこんなふうに揶揄(やゆ)するだろう。

 夫婦ぶろ

 暑い日は仕事から帰り、ひとふろ浴びてビールを飲むのがこのうえもない極楽だ。
 グーといっぱい飲み干すと、五臓六腑にしみわたる。
「生きていたんだなあ」
 これが素朴な酒飲みの醍醐味(だいごみ)でなかろうか。
 この心境はおそらく下戸にはわかるまいと思うし、それに増して、男に生れたよろこびをひしひしと噛みしめるのである。
 さて、夏のビールは生ビールに如(し)くはない。大ビンのグリップを横っちょに握り、ビールの泡を鼻の下につけながら、
「これさえあれば金も色気もいらぬ」
 なんて異口同音に交わす上戸の勝手な言い草は、このところ、暑い日の続く限り、絶えることはないであろう。
 ところで、ビールはさておき、暑い日のふろは大原庄助さんならずとも、これも極上だ。
 ことに旅先でのふろは絶品だ。粋なホテルでは、夫婦ぶろがいくつかしつらえてあり、それも地下一、二階のほどよいところにある。ふろへの通路はムード音楽が鰯々(じょうじょう)と流れて肝(きも)がとろけてしまいそう。
 要するに、夫婦ぶろは汗を流すだけではない。そのほかに何かある。そこがツボだ。
 夫婦ぶろの話になると北陸のKホテルでの、ヨグレが垂れるような話を思い出す。
 夏のある日、われわれ男性二名は宴のあと、女中さんにうまく茶々をいれられ、
「男性二人でもOKですよ」
 そう言って地下二階の夫婦ぶろに案内されることになった。手のこんだオツな岩ぶろだという。
「ご一名様はAぶろへ、他のご一名様はBぶろへどうぞ…」
 女中さんのこの言葉が少々理解できなかったが、ともかく女中さんのあとについた。
 たいていのホテルは、女中さんが途中まで案内してくれ、
「この角を右へ行きますと夫婦ぶろでございます。ごゆっくり…」
 と言って、そのままUターンするのが普通なのに、女中さんはわざわざ私たちを夫婦ぶろの入口まで連れて行き片目を閉じた。
「これは、サービス過剰だぞ」
 二人は目を見合わせてこう囁(ささや)いた。
 するとどうであろう。二つ並んだA・Bの夫婦ぶろの入口近くの小部屋から突然、妖艶な美女二人が悩ましく現われた。
 ドギモをぬかれたのは当方二人である。
「こりゃ何だ」
 美女を見て、あっけにとられた。
 そう言ったものの気分は悪くない。美女はすばやく、当方の心の内を読みとってか、
「いらっしやいませ」
 笑顔になんとなくあでやかな魅力がある。
 美女は勝手に当方の浴衣に手をかけ、手際よく脱がせるのである。美女二人も脱いだ。スッテンテンである。またしてもびっくり。
 恥ずかしいのは当方だ。追い打ちのハプニングに面喰らった私はすばやく湯舟に飛び込んだ。
「まてよ。かくなるうえは…」
 と弱気を制して度胸をきめ込み、顔を上げたら、美女と目が合い、
「湯舟から出ていらっしゃい…」
 と目で催促する。何をするのだろうか。
 隣室から水の音がはげしく聞えて間もなく止んだ。静かになった。
 当方も負けじとムード作りをよそおったが、いかんせん、それも束の間、ビールの酔いが急に現れ、上気も手伝って私は吐き気を催しはじめた。
「夫婦ならともかく、こんなところで失神して昇天したら、それこそたいへん」
 そんな心配が先に立ち、うしろ髪を引かれる思いで、あたふたとふろから出た。
ビールを飲んでふろに入ったのがいけなかったのだ。
その夜は忘れものをしたように思い、しばらく寝つきが悪かった。

 盗まれたキッス

 ひょんなことから、最近私はテレビ・コマーンヤルのシナリオを書くハメになった。
 テーマは結婚式と披露宴シリーズで、スポンサーの話だと、なるべくゴージャスになるように、という注文であった。
 なにしろ初ものなので面喰らったが、是非ということなので、しぶしぶお引き受けすることに相成った。
 日ごろわれわれは民放のテレビのCMを見て無責任な批評をするが、作るとなるとおいそれとはまいらぬ。あれやこれやを考えたあげく、弥次馬根性を離れて真剣にシナリオに取り組むと頭がヘンテコリンになって来る。
 思うに、CMの効果は、見て聞いてピンとくるもので、かつ印象に残るものでなくてはダメだそうで、のんべんだらりでは凡作になると、その筋の人が言う。
                            
 だから、超どぎついものか、スリリングなものか、垂延(すいえん)ものか、いずれでもよいが、これがズバッと当たれば万々歳だという。
 さて、私はシナリオの構想に三日二晩考えあぐんだ。書いては消し、消しては書いてみたが、結局は″ヘタな考え休むに似たり″で、もどかしいことおびただしい。
 シナリオも文章と同じく、短いほどむつかしいようだ。だらだら書けば制限時間をオーバーするし、短いとシタ足らずになってピントがボヤけてしまう。
 やむなく、ストップウォッチで時間を計ってしゃべってみたがうまくいかない。
 ところで近ごろのCMには夫婦がよく登場する。子供を含めた一家総動員(顔がよく似ているのでそれとなくわかる)のものもある。
 スポンサーは製薬会社、ドリンク、歯みがきメーカーなど多彩だが、どれもユーモアがあり、さわやかなところがミソになっている。
 だが、多くのCMの中には、アカ抜けがしているものもあれば泥臭いのもある。
 あるCMで、熱年の細君が亭主に、
「お父さん、○○飲むとシャンとするわよ」
 こんなCMを見たことがある。
 お父さんにハツパをかけた意味深のCMになっているが、視聴者の受けとめ方はさまざまで、あらぬ方面にとられてもよいようなコメントになっている。
 この「お父さん……」の文句を子供が言ったら「このガキ、こましゃくれたことを言う」になろうが、そこは細君だったら、さりげなく言ってクスッと笑うから、さして違和感はない。
すると視聴者は、CMの笑いに誘われて思わず小脇をくすぐられる。
 この寸時の笑いが価千金で、CMにはなくてはならないものになっている。
 私の書いたシナリオも、そこらにポイントを置こうと考えたがなかなかフィットしない。
 まず、その手はじめに、花婿が緊張のさなかに居眠りをするシーンを取り入れた。
 ディレクターがあれこれ腐心して花婿のコックリコックリを撮ったそうだが、即席だから真に迫った演技が出せない。
 あれこれ考えたあげく、ディレクターは、独自の判断で、居眠りシーンに変えて軽いキッスシーンをやることにした。
 この一部始終を、私はビデオ撮り完成後にディレクターから聞かされた。
 また、このCMは実質十五秒だのに、カメラマンなど四名のスタッフが半日がかりでやっと収録したという。
 そこで、試写の通知があったので、私はとり急ぎ見せてもらうことにした。
 映像を見て私はうなった。
 花嫁花婿は客席からのすすめで、ヒナ壇で長い長いキッスシーンを演出したのである。
 これにはドギモを抜かれた。
 このシーンを見た花嫁の父は「こん畜生」と怒るかもしれない。と私は心悩んだ。
「このムードいかがですか?」
ディレクターは自信ありげにこう言った。
これには、開いた口がふさがらなかった。

 家 出 妻

 昔、蒸発という言葉をよく聞いたが、今もなお、社会の片隅で悲運をかこっている。
 蒸発の語義は、手もとの辞典によると、液体が気化する現象、こっそりいなくなることと書いてある。
 いわゆる物質(人間)が気化(なくなる)することで、今様なら「ある日突然、女房が消えてしまった」 といったあんばいである。
そういえば、テレビを見ていると、最近の家出人のうち、妻の家出が随分多くなったような気がする。
 そこで、家出人の男女比率をあるテレビ局へ尋ねたら、
「十年前までは六対四で男が多かったが、近ごろは逆の現象になっている」
 そうだ。
一般に十年ひと昔といわれるように、世の中の事象は、十年のサイクルでサマ変わりしている。
家出人数もこのパターンである。
「あのときは、かくかくしかじかだった」
 といった思い出を語り合うのはなつかしいが、その逆の場合もあって、十年の期間が過ぎるころには、物ごとは人間の記憶から失せてしまい、忘却の彼方に追いやられてしまう。
 忘れてしまうぐらいならまだ救いようもあるが、マンネリになり、それが原因になって悪い方向に進むと、ことは面倒になる。
 例えば、人間夫婦稼業を十年もやっていると、なぜか倦怠期がきてうさんくさくなる。
 朝な夕なに見る女房の顔そして亭主の顔が奇妙におかめに見えたり、鬼がわらに見えはじめるからいけない。
 すると互いに言葉を交わすのもわずらわしくなり、毎日、毎夜の仕草が鼻につき、やがては亭主の帰宅が遅くなり、女房は仏頂面、嫉妬心をむき出しにする。
 こうなったら暗雲低迷、一触即発の態である。
 さて、夫婦のいざこざといえば、ほとんどが、夫の浮気、酒癖、虐(しいた)げ、サラ金、ギヤンフル、女房の野放図のたぐいである。
 このいざこざが家計に影響しはじめると、女房は家出を企てるが、当初は妻が被害者の立場になり、妻の家出後は妻が加害者になり夫が被害者になる。被害、加害のいたちごっこである。
 後に残された夫が、赤ん坊をかかえ右往左往する男世帯の図は見るも哀れである。
 乳は飲まさねばならないし、オシメは換えねばならない。食事の準備、洗濯と、てんやわんやの大騒ぎである。色気もどこへやらである。
 妻の家出の大半は「犯罪の陰に女あり」と同じく「妻の家出の陰に男あり」で、夫の甲斐性なしにつくづく愛想をつかした妻は、さっさと家出してしまう。
 蒸発した妻は、しばらくはひとり暮しに耐えるが、だんだん男を意識し血が騒ぎ出すと、その陰に必ず男が出没する。
 節操のある妻は二夫にまみえずという昔の道徳観は、もはや消えてそのかげりはない。
 二夫だろうが、三夫だろうが、衝動的にひっついて衝動的に別れる。分別なんぞどこ吹く風だ。
 ところで、女性は一般に繊細な神経を持つわりに、意外と短絡的なところがある。
 それが証拠に、男に口説かれ、そそのかされ、ついその気になって、
 「のろまな亭主なんか、もう飽き飽き」
 と割り切り、浮気の虫にとりつかれると、女性は小悪魔のように振舞う。だが、所詮女房は女、残した子供たちが心配で、うしろ髪を引かれる思いにかられる。
 こうみてくると、家出は、夫にとっても妻にとっても不幸の極みである。
 夫婦のしがらみは、人生の運命(さが)が生きとし生くる以上、いつもつきまとうのと同じだ。
 人間万事塞翁(さいおう)が馬とはよくぞ言ったものである。

 お見合い

 「左を向け」と言ったらいつまでも左を向いているような女性−。こういうタイブが日本古来からの純真な女性の姿という人がいる。
 「左へ向け」とは、女性にとってまことにけしからん話で「女性を小馬鹿にしている」と、多くの女性は目をつり上げる。
 考えてみれば「左へ向け」はリモート・コントロールだ。ロボットだ。
 しかし、男性側の意見は違う。「左へ向け」「左を向いている女性」はいかにも無垢、天真らんまん、そしてしおらしさを表しているようで、日本女性の鑑(かがみ)としている。
 また、鼻もちならぬ男性は故事を引き出し、
「貞女、両夫に見(まみ)えず」(史記)「亭主の好きな赤烏帽子」なんてキザな言葉で女性を茶化し、かつたぶらかす。
 それはそれとして、日本女性の姿(イメージ)は、昔と今とは随分変わったように思う。
 試みにお見合いの席をみればよくわかる。
 昔のお見合いは随分仰山だった。カミシモをつけたようでギクシャクしていた。
 良家の娘さんだと、しきたり、家柄、上座、下座、時間、着付け、親の出席なと、古い慣例でがんじがらめにしめつけられていた。
 「深窓の娘は、婿どのがお茶を飲むまでお茶に手をつけるでない」と、母親はしきりに、にわか勉強のテーブルマナーを教える。
 両親たちは座のしらけに気くばりして、両親同志がペチャペチャしゃべり、娘は夕タミに、「の」の字を書いたり、夕タミをむしったりして奥ゆかしいところを見せる。
 婿どのは適当に茶菓子に手をつけ、お茶を飲み、トイレに立つことができるが、嫁どのはそうはいかない。ノドを鳴らし、シタなめずりをし、極度の我慢の子を強いられる。

 それだけでない。
 嫁どのは長時間の正座にシビレがきれるわ、あくびが出るわである。ことにアクビ殺しには冷汗三斗だ。踵(きぴす)を左右にクリクリさせてキュウと生殺し。この動作をうまくやらないと奇声を発することがある。するとお見合いはオジャン。かくて嫁どのは忍耐に続く忍耐で腹痛さえ起きるという。

 これに引きかえ、当節のお見合いは全くあっけらかんである。
 もちろん盛装などしない。婿どの嫁どの、双方カジュアル・スタイルだ。
 もちろん話のやりとりも明快だ。お見合いの時間と場所を決めればあとはOK。仲人は二人を引き合わせて、
「適当によろしく」
 と言って早やばやと退散してしまう。
 両親などは全く出る幕はない。
 ことに嫁どのがお見合いに行く際、あたふたと、
「お母さん、お見合いに行ってくる。六回目のお見合いはどこだったかしら」
 そう言って、母から場所と時間を確かめずに飛び出し、また引き返して、「−ああ、思い出した。じゃね」
 現代娘は全くドライだ。

 こんな調子だからお見合いの席もおして知るべしである。
 大いに飲み、かつ食ったのち、嫁どのはよせばよいのに、
「おいしくいただきました。お見合いの二次会ってどう?ビフテキのおいしいお店があるの、行く?」
 驚いたのは婿どのだ。目をパチクリさせて、二の句がつげないありさま。
 が、婿どのは思い直し「据え膳食わぬは男の恥」と、ほくそえみ「えい、ままよ」とばかりに二人は手に手をとって二次会へ。

 夫婦は異なもの、オツなもの

 世の夫婦とは不思議なもので、似たもの夫婦もあれば、
「あれだけ教養のある人が、あんな女と・・・・・」
 と言いたげな夫婦がいる。
 その逆の場合だってある。つまり「あんな男がどうして」と下げしむ夫婦だ。
俗語に「タデ食う虫も好き好き」という言葉があるが、似ても似つかぬ夫婦が、よくもまあ十年
                                
二十年、さらにまた三十年間、何の波風も立てずに、よくぞ琴瑟(きんしつ)相和すの生活を続けて来られたものだと、感心させられたりする。
 ところで、夫婦とは、空気のようなものだ、という人がいる。特に熱年夫婦にである。
 長い夫婦生活がマンネリになり、怒っても笑っても、痛くもかゆくもない、文字どおり空気のような存在になってしまうのが夫婦の常である。全く「ほんにあなたは○のようだ」を地で行く夫婦だ。
 そうなったら、夫婦生活は惰性だけで、節目やけじめがちっともなくなってしまう。
 とはいっても、人間勝手なもので、夫が妻が身辺にいないと、大慌てに困り果てるのである。ノドもと過ぎればのたぐいだ。
 寄るとさわると、夫婦は空気だなんて奇妙にたとえるが、ではなぜ、夫婦を長くやった人が離婚などするのだろうかと、やたらと人生の悲劇をかい間見ることがある。
 離婚の原因は案外はっきりしている。
 離婚組は、亭主または女房が、あるキッカケから、毎日、相手の仕草が鼻につくようになるとも
                                           
ぅいけない。もとのサヤに収めようといくら力(りき)んでも、いったん割れたかわらけはもとへ還(かえ)らない。
鼻につくが鼻もちならなくなるためだ。
 ほれ合った夫婦だと、ちょっとやそっとのアクシデントがあってもそれが触媒になったりして、かえってうまい具合に仲よくなる場合だってある。夫婦は異なものだ。
 そうなると、夫婦は一層ご円満になる。
 では、夫婦がご円満になるのは、そのほか日常どうあればよいか、そこらをさぐつてみる。
 それは、早くいえば、亭主は亭主として、女房は女房としての首カセのために、本来の姿であればよいのだ。いうなれば亭主は亭主のワクをはみ出さないことである。
 無理をしなくともよい。派手に立ち振る舞うこともない。背伸びすることもない。
 言葉を変えて言えば、亭主らしく、女房らしくするという、互いのルールを守りさえすれば、夫婦間のいさかいは全く起きないはずである。
 亭主関白という言葉がある。
 当節女権上位といわれるが、女権がいかに強くとも、女房関白とはあまり言わない。
 とかく、男という動物は、外では無力であっても、家では「一家の城主」としていばりたいのである。そんな亭主がとかく多い。
「女房なんかに負けるものか」
 とする振い立つ虚勢、これである。
 かしこい女房だと、そこはうまく割り切り、そ知らぬふりして、
「うちの亭主はおっちょこちょいだから、適当にいばらせておけばよいのよ」
 なんていう、達観した女房こそ、負けるが勝、または先見の明のある女房といえよう。
 先見の明があろうがなかろうが、若い新婚さんは、新婚生活に自信がないために親と別居ができない人がよくある。成人しても親ばなれができないフニャ夫婦だ。
 こんな夫婦は似たもの夫婦もへったくれもない。いわゆる赤ちゃん夫婦である。
 家庭をもてば、家庭の切り盛り、夫婦の機微、近所づきあい、親せきとの交際など、厄介なものがつきまとう。
 夫婦の味わいは微にして深遠である。

 夫婦の魅力

「タタミと女房は新しいのがよい」
 この言い草は女性にとっては侮言である。当節は通用しないのでないか、と思うものの、魅力ある女性、色気ある女性は男心をゆさぶるようで、例えば若いきれいなよそ様の細君に、失礼を省みず、
「最近、ひどく色気がありますね」
 と耳もとでささやくと、
「そうかしら」
 だなんて言い、したり顔で二ッコリ笑う。
 しかし、色気という言葉はだれかれなく言うべきでない。
 いくら気安いからといって、うちのおかめさんに面と向って「お色気があるよ」などは噴飯ものだが、その際おかめさんはダミ声で、
「そういうお前さんの顔はおぞけがするよ」
 こう斬り込んで来る。
 古女房と古亭主−。どうやらカビが生えたようなしろものだが、もはや体力、気力、容姿とも若さは微塵もない。もちろん、人間は、魅力がなくなったら蝉のぬけがらのようで、味もそっ気もなくなってしまう。
 女性にとって魅力とは、色気を指す。色気のない女性はこれまた魅力がない。
 そこで、夫婦の魅力とは何ぞや、につき当たるが、魅力だけは、好みなどの多様性があってズバリ的を射るようにはまいらぬ。
 新婚間もない夫婦はともかく、数年以上過ぎてから、魅力だの、色気だの、といっても、よそごとのようで、今さらの感が強い。
 それほど古い夫婦はしょぼくれている。
 しょぼくれたのは、実は生活に追われた遺物で、責任はむしろ亭主にありそうだ。
 では、子供たちが一人前になってヒマができたら色気が出るようになるのかと言えば、
「シワにおしろいをぶち込んだセコハン女房になんで色気が・・・・・」
 と亭主のススけた顔を棚に上げて、どさくさにこう女房をこき下すのだ。
 実際、魅力や色気の盛りが過ぎた夫婦に 「色気を出せ」と言うことこそ、無理な話である。
 もちろん、若さは年齢とともに失せるのは生理上仕方がない。だのに俗な亭主は野暮ったい女房などと理不尽なことをいう。若さが無理なら、一歩退いてせめて年相応の色気があればという、これまた奇妙な注文を並べたてて女房を困らせる。
 片や中年亭主は、夜な夜な「スキあらば」 と、スリリングな浮気心を燃やしはじめるからいけない。亭主は全く身勝手な巨大ゴミだ。
 ところで、この世に男女いずれかがいないとどうだろう。
 そんな仮説的なことを思いめぐらせるのだが、例えば、男ばかり、女ばかりだと、そこに住む男あるいは女は、毎日が砂をかむようで、時には気が変になり、半狂乱になって、相克と阿修羅の巷を現出するのでなかろうかと思う。
 話は変わるが、かなり前に 「蒸発」を扱った番組があった。
 ある日亭主が、女房が突然いなくなる。家族は八方手を尽して探すが見当たらない。やむなくテレビに捜索を依頼する。
 後日、蒸発者が発見され、家族と面会するシーンがあるが、そこがこの番組のハイライト・シーンで、一瞬異様な空気につつまれる。
 このごろの蒸発者は、女房族が多い。家出の原因は欠陥亭主、浮気女房、深刻な家庭事情がからんでいる。しかも、家出女房には男がいて、一層面倒なことになっている。女房に蒸発された亭主は小心翼々、子供の世話に力尽き果てている姿は哀れである。
 夫婦とは、双方に魅力がなくなると同時に危機が訪れてくるように思う。

 女が結婚したいとき

 女が二十歳近くになると途端に「結婚したい」とひそかに思いはじめる。そして「どんな男性がいいかしら」 と、朝な夕な小さい胸を痛める。
 理想の男性を好きなタレントに見立てて空想を描いてみたりするが、上を見れば涯なしで、理想と現実の差は極めて大きい。さりとて、わが身はといえば月とスッポンで、一瞬うんざりさせられる。
 お見合いが二度三度は当節はザラで、辛抱強い人は五度六度と、これでもか、これでもかの挑戦である。
 お見合いはいくらしてもよいと私は思うのだが、当事者にとってはバツが悪いらしい。
「ここらがいい潮どきかも・・・・・」
 とみずからを省みて、やや捨て鉢になるときもあるようだが、そう自分を安売りしないのがよい。
 そもそも女が、結婚したいと思うときは、大きく分けて次のようになる。
 その一つは、好きな男性を見つけて、しびれるような大恋愛をし結婚したい。
 その二つは、ホームドラマの筋書きのような平均的な甘さのある結婚をしたい。
 その三つは、人並みのつつましい結婚をしたい。高望みはしない。
 お見合いを数度した挙句の果、ややレベルダウンして、
「男は顔じゃない。少しぐらい顔がひん曲っていようが心がしっかりして、やさしい人ならOKよ」
 こうおっしゃる娘さんがよくあるが、結婚だけは望めば望むほどキリがない。
 いつの世にも嫁姑の間がらはうまくいかないようだ。
 二十歳ぐらいの無垢な嫁と、キャリアウーマンの姑とは到底ぴったりいくはずがない。
 仲が悪いと、日常の仕草の一つ一つにも勘にさわるようで、憎悪が憎悪を呼びにっちもさっちもいかなくなる。
 そのことで、娘を持つ母親は、
「長男の嫁には娘をやりたくない」
 異口同音に言う。
 父親はさほど深刻に考えないのに、単純に「娘を嫁に出したくない」と思うし、さりとていつまでも手もとに置いておくのは娘が可愛いそうだと、至極矛盾だらけのことを言って困らせるのである。
 結婚する先様の義父母と嫁の実父母たちの真っただ中に飛び込んで行く嫁の勇気はいかばかりかと思う。が、そういう生きざまを身をもって体験することは処世上プラスになることが多いかもしれない。
 だが、嫁はいったん外へ出て同窓会などへ出席すると、家のモヤモヤをよそに、つい心にもないことを言う。
「あなた結婚したの、幸福?」
 と問われて、
「私、とってもしあわせ」
 と答える人が多い。
 いくら姑との間がギクシヤクしていても、「しあわせ?」と問われたら、だれだって「むろんしあわせよ」 と答えるのが一つのパターンである。
 そのとき同窓生は、
「彼女はウソを言っている」
 と見抜いていても、さして逆らわないのは、それこそ女性の運命(さが)といえようか。
 当節の女性は、一般にドライといわれる。だが芯底は初(うい)ういしさがある。世にいう「おかめとひょっとこ」 がうまくいっているのも、夫婦のジョイントがかっちりかみ合っているからだと思う。

 フィーリンク(魅力)

 女性に対し、無粋にも「もてる男性はどんなタイブか」と問えば、ほとんどは「やさしい男性」と即座に答える。
 やさしいとはいささか心情的だが、女性は一般に男性の外形的なもの、すなわち美男子、足が長い、背が高い人よりか、むしろ心のうちに何物かを期待し、求めているフシがある。
 では、もてる男とはどんなタイブかということについて、野暮ったい話だが考えてみることにしよう。
 ある職場にこんな男性がいるとする。
 スポーツ万能、肩幅が広くがっちりした体格。やや日焼けした顔である。
 いつも白いワイシャツを着て清潔感百パーセント。袖をまくってバリバリ仕事をする。
 平素は寡黙だが、応待するときは滔々(とうとう)と熱弁をふるうさまは理知的で論理的。ちょっぴりユーモアがあり、時折女性たちを笑わせるセンスを持っている。といって性格はナイーブ。人ざわりもよくナイトぶりの片鱗を見せる。金離れがいいので、同僚におごる業(わざ)も忘れない。
 といって、美男子ではない。だから顔なんぞは第二次、第三次だとしている。
 だのに、どことなく魅力がひそんでいる。
 具体的にどこがもてるのかといっても、どことなく魅力がという意外、さして見当たらない。いわゆるフィーリングがいいのだ。
 例えば、ある夫婦に、奥さんが、
「お宅のダンナさん、職場では人気抜群だってよ。お気をつけ遊ばせ。でも、うらやましけじゃない」
 なんていう奥さんたちのささやきを聞かされるにつけ、当の奥さんちょっぴり鼻が高いが、ちょっぴり心配でもあるという。
 もてるというのは「どことなくもてる」 のであって、これといった決め手はなさそうだ。
 つまり、もてると魅力は紙一重で、不即不離、表裏一体の関係にあるらしい。そこらのツボは、もてぬ男とんとわからない。
 聞くところによると、俳優の火野正平が女性に大もてだという。
一見、火野正平は男前でない。むしろ小兵だ。どこが女性からチヤホヤされるのかといえば、とことん女性にやさしいのだそうである。女性のかゆいところをくすぐるツボをつかんでいるといえよう。奇妙な特技である。
 自分に女房がいようが、そんなのはお構いなしだというから、愛情のおもむくところ、夫婦のおきてなど、あったものでない。
 どちらかといえば世情よくいわれる、世話好きなのである。よく気がつくのだ。悪くいえばドンファンなのかもしれない。
 何といわれようがサービス一徹である。
 いつぞや「こんなタイブの男性も魅力があるのよ」という女性の声を聞いたことがある。
 それは、何でも屋である。
 彼に結婚の仲人役を頼めばたちどころにOK。司会でござれ、幹事でごされ、引き受けたら一瀉千里にやってのける−というタイブ。
 おまけに根がやさしいから千客万来である。
 欠点といえば少々ガサツだが、何でもテキパキやってのけ、そっと女性の心の琴線に触れる手管(てくだ)を心得ているのだ。
 考えてみれば男性の風上にも置けないようなタイブだが、よ−く観察すると、人好きのするこにくい人物だ。
 だが、冷静な女性がじっくり見直したら「なんだか、のれんに腕押しみたいで、結婚の相手としては今イチね」 と評価する。
 女性にもてる男は、たいていは浮気男の烙印(らくいん)を押されるようなタイブが多い。
 だとしても、人は好き好きだから、もてるといって、そう羨望することはあるまい。

男って結婚するところっと変わるのね

 結婚したばかりの女性がやってきて、
「男って結婚すると、ころっと変わるのね」
 とちょっぴり私に気がねしたような素振りをみせて言った。
 多分亭主と同じ同性を気にしているフシがうかがえる。
 聞かれて私はしばし考えた。
 自分の亭主が結婚後豹変するかしないかは、結婚前からおよそ見当がついていたはず。今更「変わった」と言ったって、これはまぎれもなく、夫婦互いの責任ではないか。
 こう思うのは関係のない当方の判断。
 第三者から見れば、まるで夫婦間の痴話げんかだ。
 こんな風景もある。
 カビの生えた古女房は、風呂から出てスッテンテンで部屋中をのし歩くというが、この家庭内パフォーマンスをどう思うか。
 彼女は生来、ナイーブすぎるほどの娘だった。いわば、昔の深窓の娘である。俗にいう「右へ向け」と言えばいつまでも右へ向いているような純情さが彼女にはあった。
 そんな俗世を知らない生娘が結婚したらどうなるだろうか。なすことすること、はじめての経験なので戸まどったに違いない。
「男ってころっと変わる」という彼女の素朴な疑問も、むしろ当たり前の話で、当方が「痴話げんかみたい」と勘ぐることこそ見当違いかもしれない。
 彼女は続いてこう話してくれた。
「婚約時代は男女平等、男子厨房に入るべし、女性解放、春秋各一回の夫婦旅行、清掃整頓は夫婦交代制など、模範亭主を地で行くような理解を示していたのに、最近になってはどれもこれも反古(ほご)にしてしまった感じ。呼び名だって、婚約時代は「みちこちゃん」だったが、結婚後は「みちこ」でしょう。私は「たけおさん」と呼んだら「あなた」って呼べって。「たけおさん」が愛情があるみたいなのに彼はそうは思わないの。時々、夜は九時十時のご帰館よ。たまに午前様だってあるわ。
この間など「足の爪を切れ」って言うの。私、そんなこと生まれてはじめてなの。これどう思う」
 彼女はたて続けにこうおっしゃる。
 ふんふん聞いていたら、彼女はまだまだ不満がありそうだ。純情なだけに哀れを誘う。

 そもそも女性に「女らしさ」を要求する男性は、およそ保守型、懐古型、嫉妬型である。
 保守型や懐古型の人は自分の言いなりにならないと気がすまないのである。主張が間違っていようが片寄っていようが、いったん言い出したら矢でも鉄砲でも来い、自分に刃向かう者は容赦しないという強引さがある。
 さて、話は変わるが、家庭では一般に亭主関白がうまくいく。これとは逆に亭主を尻に敷く、なんて言葉はいただけない。
 そうでなくとも、亭主関白はイメージとして聞こえはよいが、女房関白とか女房上位なんていう言葉の響きもかんばしくない。
「Aさんの奥さんは、いつも亭主をたてて感心だわ」
 との風評は、どことなくほほえましい。
 極端だが女房はバカでもチョンでもいい。ひとまず亭主をたて、陰でけんめいに手助けをするいじらしい女房こそ「すばらしい女房」 であろう。
 山内一豊の妻がそれである。
 糟糠(そうこう)の妻(貧苦をともにしてきた妻) という古い言葉もある。夫婦は二世(夫婦の縁は来世まで続く) も味わいのある言葉だ。
 彼女の言う「結婚するところっと変わった」という夫に対する評価は、新婚間もないころだけに、彼女にしてみれば、真っ当で無垢な受けとめかたかもしれない。
 夫婦の前途は遠くて長い。長い生涯であるがゆえに、夫婦ともども無理のないつきあいを保ちたいものだ。

 温泉旅行

 日本列島総観光ツアーといえるほど、最近は観光バンザイである。ネユもシヤクシも旅行に明け暮れるといってよい。
 農協さんが元気旺盛なころは観光か農協さんかといわれるほど、日本人の海外ツアーがお盛んてあった。
「メガネとカメラ」が日本人として象徴されるように、このブームが世界中に席巻され、今様ならカメラを積んだクルマが天から降ってきた、という図式になろうか。
 こんな調子だから熟年夫婦は、
「元気なうちにフランスヘ行きましょうよ」
 女房はこうである。すぐ乗ってくるのだ。
 それにしても女房は鼻意気が荒い。ケタが違う。フランスとはいささか気負い過ぎだが、庶民にとってはせめて北海道あたりが無難でないかと思う。が、そこらへんが女の思い上がりというべきか。
家庭の財布の紐を握る女房がかく申すのであるから、恐らく財政が豊かになったのであろう。豊かさのバロメーターは、女房の平素の仕草を見ればよくわかる。余裕があると、顔の輪郭がなんとなくおうように見えはじめ、一層ふくよかさが増してくる。

 ところで、近ごろはどこの温泉町でも昼は閑散としているが、ネオンがともりだしてしばらくすると、みやげもの屋が途端に活気づき、はなやかさがひときわ増幅されてくる。
午後九時ごろになると、どてらの気流しさんがどっとふえ、オダ声が高くなり、カランコロンと響くげたの音がひとしきり高くなる。
 見るでなし、買うでなし、のゾロゾロ歩きの一団が去るとまた一団。酔顔の男女ペアが陳列の品をくい入るように眺めながら、左右をうかがいつつ、
「おばさん、珍しい品おまへんやろか」
 熱年の男性が意味ありげなことを言って女店員を困らせるが、蛇の道はヘビで、店員はすぐお客のハラをぴたり当て、急に笑みをふくみ、耳もとヘロを寄せ、
 「あなたたち、どこのホテル?」
 女店員は当意即妙なれたものである。
 それにしても、団体さんの夜歩きはどうして一列横隊に歩くのだろうか。しかも、その中のリーダー格が店へ入ると、金魚のフンよろしく、ずずいと入って行く。そして品物を手にとり、チラッと見るが買う気がない。

 しかし、考えてみれば、みやげもの屋の見て歩きはまだまじめな部類。男性は酔顔をもてあますが、寝るには早く、ホテル内のバーで飲むのは野暮ったいとする男衆は、宴席がすむころ奸計をたくらみ、よからぬところへ抜き足差し足と相成る。
 そういう人は常日ごろの動静、言動を見ておればすぐ読みとれる。夜な夜な「スキあらば」と腕を撫すのである。
 恐らく危険な夫婦といわれる亭主もそうであろうと思う。
 平素なんとなくキバを磨いている危険性百パーセントの亭主は、いくら慎重な地下工作をしていても、どことなくスキがある。だからちょっとしたはずみで女房にシツポをつかまれる。
 男は案外単純だから、観光ツアー(温泉町)なら露見されないであろうと思っていても、ツアーからご帰館後、女房と会話をしていて、ひょんなところから悪事があばかれる。
 秘密を秘密にしておくことは、とかく夫婦ではむつかしい。
 こう書いてくると、観光ツアーの男性はことごとくよからぬ行動をしていると思いがちだがそうではない。やりたくともやれない恐妻家、芯から浮気のできない人やらない人が、世の中にいくらかいるが、あなたのご亭主はいかがなものだろうか。

 浮気の小出し

 女性の鼻もちならぬものに、いじわる、ふてくされる、しっとがある。
 いじわるは女性同志の間によくある手だ。
 原因はいろいろあろうが、恋にからむもの、日常生活の中でのふれあい、ちょっとした仕草のゆき違いなどから、どちらからともなくいじわるがはじまるようである。
 夫婦の間にはいじわるはごく少ないが、ふてくされたり、しっとはよくある。
 ふてくされるとしっとは相関関係があるようで、しっとのあとにはふてくされるがあり、ふてくされるのあとにはしっとがつきまとうようである。
 どちらが先かといえばケースによって違うが、いうなればにわとりが先か、タマゴが先かの差で、あまり力むほどのことはあるまい。
 女房(OLもご同様) のいじわる、ふてくされる、しっとは、もともと女性本来の性格的なものとされているが、亭主(サラリーマンも同じ) たちが日ごろ浮気心を燃やし、スキあらばと腕を撫(ぶ)しているのとよく似ている。つまり夫婦というものは、似たもの夫婦といわれるが、本音は相克作用がたぎっている。
 だから、スネにキズを持つ亭主は、ご賢明な女房にかかったら、いつ、どこで浮気のほんねをつかまれるかわからない。
 ことに女性のしっと心は繊細で底が深いから、世の亭主族はいつも女房にスキを与えないよう警戒しておかねばならない。
 だのに、女房はその裏で、
「うちの亭主、きっと浮気していると思うの。しっ尾を出さないだけ。まあ、考えてみれば、しっ尾を出さないように浮気の小出しをしているうちはまだましね。にっちもさっちもいかなくなったら、もう夫婦もおしまいよね」
 こんなささやきが聞かれるのである。
「男はみんな浮気の小出しをやってるのよ。浮気をしない男って石部金吉みたい。『まじめ一辺倒』という鋳型に入っているようなものね。鋳型から出たら何をするかもね。奥さん、お宅のダンナさん、話せるじゃないの」「お宅のダンナさんは誠実だから、浮気なんかできっこないわよ」と言ってくれるかと思ったら、逆に「お宅のダンナさん、浮気の小出しとは話せるじゃないの」とは意外や意外。
 こんな言い草を浮気のケのある亭主が聞いたら「よし、いっちょ、でっかいことをやったるか」
と、逆手にとる公算大である。
一般に女性のしっとには、ドライ型とウェット型がある。
 さしずめ、浮気の小出しぐらいなら許すわ、とのたもう女房どのはドライ型だが、亭主の浮気をかぎとった途端、急にふてくされる女房はウェット型であるようだ。
 ふてくされると言えば仏頂面のことだが、知人の奥さん(未婚当時ある職場にいた)がふてくされたときは、ふぐが膨(ふく)れたときのようだと、もっぱらの評判だ。
職場のあるワル男性は、社内運動会の際、こともあろうに大うちわに彼女の膨れっ面を漫画チックに描いて、彼女から大目玉をくらったことは、つい昨年のことだった。
 たいていの人なら漫画を見て、「この漫画、ポイントをつかんでるわ。ウァハハハ」と腹を抱えて笑うところだが、彼女の場合は真剣そのもの。すぐ血相を変えるのだ。このタイフこそウェット型だ。
 こんな女房は、いくら浮気の小出しでも、虫のいどころが悪かったら夜叉王のように髪を振り乱して挑(いど)んで来るだろう。
 もし浮気の大出しをすれば、ハサミどころか、刃傷沙汰になりかねない。ことによってはこの世にグットパイせねばならないことになる。クワバラ、クワバラである。
 浮気の小出しはどの程度が平均値かといえば、それは分からない。といっても、夫婦はなんらかのショック・アブソーバーの役目を常に考えていないと、とんだとばっちりを受けるかもしれない。

 夫婦の危機

結婚後数年が過ぎたある夫婦に危機が訪れた。夫に愛人ができたのである。
「あなたはなぜひどいことをするの。私に飽きがきたの」
夫は黙して語らずである。
「とうとうバレたか」夫は内心動揺を覚えた。でも、つとめて冷静を装った。
夫が黙っていては話にならない。
「どうして答えないの。いつまでも私を裏切れると思ってるの」
 妻はひどく興奮している。
 なぜ夫は愛人を作ったか −
 実際は妻に魅力がなくなった。具体的には夫婦生活がマンネリになった。化粧もせず、真黒な顔してふてくされることが多くなった−と、夫は妻の欠点だけを臆面もなく言う。
 それに加えて、
「彼女の方が数等美人だから」
 こう言ったら、妻は夜叉王のように挑んでくるだろう。夫はそう思った。
 口に出さなくとも、いつかは言わなければならない危機が来るかもしれない。
「妻に魅力がなくなった−」という言葉も妻にとってはひどくこたえるが、こうも妻からつめ寄られると「えい!ままよ」と一瞬小悪魔のような考えが脳裏にひらめく。
夫婦の危機というのは、ひょんなことがきっかけになり、思わぬアクシデントを引き起こすことがある。
妻に魅力がなくなったのは、夫もご同様である。妻にシワ寄せするのは酷だ。
といって、結婚後、数年間のうちに魅力だの夫の浮気だのの問題があっても、互いにある程度は辛棒しなければならない。それが夫婦というものである。妻はそう信じていた。
 だのに、夫に愛人ができたと、夫から打ち明けられたときは妻はショックだった。
「言うべきでなかった」
 夫はそんな反省もあったが、覆水盆にかえらずで、もはやどうすることもできない。
 そういう場合、一般に理性の影は薄らぐものである。
 逆に目には目、歯には歯で、
「私に魅力がなくなったと言ったって、あなたはどうなの。あなたに魅力があるというの。ひどく勝手と思わない」
 妻はこう切り返してやりたかった。
 それとも、
「私は子供の世話をして家事に追い回されているのよ。おまけに、あなたの身の回りにも気をつかっていたのに、今さら愛人が出来たなんて聞えないわよ。どちらが悪いか、ようく考えてみるといいわ」
 妻も言い分はあった。しかし言わないのが賢明だと思った。
 まして愛人のことで離婚にまで発展するとすれば妻だって権利を主張したくなる。
 夫婦が生活を築いて来たのだから、財産の半分は当然妻にも分与されるべきだ。
 妻は徹頭徹尾、最終まで闘うべきだと、やみくもに考えはじめた。
「愛人は多分若い人なんだわ。そして私よりきれいな人に違いない」
 妻は衝動的にそう直感した。
 顔の美醜を言われたら妻は一言もない。二十四歳で結婚して六年過ぎた今日「私はそんなにびれているとは思わない−」彼女にはそんなかすかな自負心があった。だのに改めて魅力がないと言われてみれば、妻としてこれほどの侮辱はない。
 そういえば、最近離婚がふえたという。
しかも離婚志向は女性に多くなった。つまり、結婚しても相手に満足できない時は、いつでも別れればいい−という考えが当節強くなってきた。この夫婦もその域を出ない。
男女平等観の思想が強くなった今日、夫婦問題も次第に変わってきつつあるようだ。

 姉さん女房

 このごろの若者をつかまえて”もやしっ子”だの”未熟児″だの言っているが、そう言われてみれば、現代の若者は出生してポッと大きくなった感じがしないでもない。
 いわゆる生れてから成人年齢に達するまでの、どこかの間がポッと抜けている状態−、である。
どこかの間とは、人それぞれによって違うが、およそ十歳くらいから二十歳までの十年間のうち、どこかの期間がなんとなく抜けている状態と思えばよい。
 いわゆる人並みでない状態である。からだだけは一人前であるのに、頭脳は寸たらずの状態である。
”寸たらず”など呼ばれたりすると、花の若者からしかられるのでおくとするが、その寸たらずをどこで、どうカバーして、一人前の男(あるいは女) に仕立てあげるか、そこが問題だ。修復はいたって骨だ。
 この寸たらずの現象は、当節の新婚夫婦にも散見することができる。
 それが証拠に、昔の夫婦の年齢パターンが、近ごろ急に崩れはじめたのである。
 元来、日本の(世界も同じ)夫婦の年齢差は、夫が上で妻がいくらか下である。
 この現象は、亭主関白の原型という人がいるがそうだろうか。
 それが逆に、柿さん女房だとどうだろう。いくら偉丈夫な亭主でも、お姉さんにはいちもく置かざるを得ないのでないか。
 普通なら「みかんを一つくれ」という言葉を、姉さんだと「みかん一つおくれ」「みかんを一つ持って来てくれんかね」「みかんを一つ頼む」と、ちょっぴりお願いのニュアンスのある言葉を使うことになる。
 本来の男性言葉を無理に折りまげて、やや柔らかく言う亭主がいる。
 すると姉さん女房は、にんまりほくそえみ、内心、「うちの亭主は、私にいちもく置いているのね。ここらで女房関白に切り替えてやろうか」と、小悪魔的なスリルに舌なめずりしようとする。
 この状態が日一日続くとそれがマンネリになり、次第に亭主は柿さん女房のおしりに敷かれることに相成る。
 かくて、うだつの上がらぬ亭主、ダメ亭主、そしてうらなり亭主になり果て、
「奥さん、ご飯できましたよ」
 なんてエプロン亭主に傾斜して行く。
 家庭の内幕は知るよしもないが、姉さん女房を信奉する人の中には、亭主のもやし子然とはまた別な遠謀を女房は考えているフシが見える。
 すなわち、男という生き者は、何事も猪突猛進型が多く、時ならずしてこと切れてしまう。いわ
      
ゆる老いて駑馬(どば)になる率が高い。
 が女房は全く逆。女性は生涯使える体質を維持しているから、結論的に夫婦は姉さん女房がよろしいとする公式が成り立つ。ここで″亭主元気で耐えられるがいい″とする戯訓が生れそうである。
 もう一つ、亭主にはウイーク・ポイントがある。それは亭主の小児的な甘えである。
一般に男には英雄的な心構え、女には甘え、従順といった本質的な性格めいたものがある。
 英雄的な男性といえば、洋の東西を問わず、時代を背負うような武将がいた。片や女性には時代を傾けるような妖艶な女が数多くいた。
 いずれも名を挙げるまでもないほどだ。
 歴史に残るほどの女性の多くは、あふれるばかりの妖艶さ、甘えがあった。
 当節は、その甘えが男性に乗り移った感がある。内面的、外面的に女のような男がポツボツいて、びっくりさせられることがある。
 なさけない話である。

 似たもの夫婦

 世の中には似たもの夫婦がいる。
 似たもの夫婦とは、夫婦どちらから似てくるのだろうかと、ふとそんな他愛ないことを考えたりする。
 結婚前は全くのアカの他人だった者同志が縁あって結婚したのだから、性格、趣味などは急に似てくるものではない。 結婚当時は、まるで玉石混淆(こんこう)とまでいかなくとも、
「あの夫婦がねえ」
 と口の端(は)にのるほどの違いがあったのに、数十年過ぎたころから、次第に似てくるのだ。
 どこがどう似てきたかははっきり言えないが、第三者からよくよく見れば、
「なるほど、何となく似ているわい」
 とこう人は言う。
 似たもの夫婦にはいくつかの要素があるが、顔が似ることはまずない。姿、形も同じだ。
 だが、仕草は違う。言葉の喋り方、イントネーション、言い回し、アクセント、言葉の表現、話題など、小業(こわざ)のところが、なぜか似か寄ってくる。
 例えば、少々ガクある亭主が話のはしばしに横文字を使うと、女房も負けじと使う。
 が、結局はガクの差で、アクセントがはずれたり、トーンがヘンになったりする。
 また、気のせいかもしらないが、アクの強い亭主がいて、女房はさほど気にしないのに、長年連れ添っていると、以心伝心妻にアクができてくるからいけない。
 まして、亭主のアクに女房がベタぽれだったら、アクがアクを呼び亭主のアクが妻に乗り移ったりする。
 不思議といえば不思議である。
 それもそのはず、一つの器の中で夫婦が、年がら年中一緒にいるのだから、二人の仕草が似ていないことこそ、まっとうな夫婦とはいえない。
 といって、何事も例外があるものだ。
 亭主が反骨精碑の持主だったり、女房があまのじゃくだったりすると、夫婦の似かたも奇妙なものになってくる。
 卑近な例として、悪党の亭主にはタチのよくない女房がいつもくっついている。だんだんワルが染まり「類をもって集まる」になる。
 もしかして夫が悪たくらみすると、悪妻が陰にいて夫をそそのかしたりする。
 悪人には悪人がつきまとうのが世の常だ。
 特に、女房は、結婚当初は社会の荒波にもまれていないこともあって純情無垢。「ハイハイ、承知しました」と、何ごとも「ごもっとも」と、万事素直だ。
 それがどうだろう。子供が一人二人生れて貧乏世帯にさらされ、おまけに結婚後十年ほど過ぎるとことごとにふてくされ、理屈は言うわ、いじわるするわ、大声でわめくわ、しっとをするわ、果てはある日突然蒸発するわで、てんやわんやの態(てい)たらくである。
女房がかくふるまうのも、その原因は一も二にも亭主にあるという女房たちの意見があろうかと思うが、この種のいさかい、大岡越前守ですら、こうべをかしげるに違いない。
「夫婦げんかは犬も食わぬ」
 かりにも仲裁に名を借りて、夫婦の間をとりもっても、結局はやぶをつついてへびを出す仕儀と相成る。
 まずはクワバラ、クワバラである。
 世にいう夫婦げんかは、犬も寄りつかないのだから、やるようにさせておくのがよい。一夜にして仲直りすることもあるのだから。
一般に、亭主関白は世の男性の悲願であり、世話女房も亭主の望みとするところである。見方によれば、この型も似たもの夫婦になろうか。
 ということは、日本の夫婦のパターンは、亭主関白型と世話女房型であり、これだと夫婦円満だし、おまけに、世の多くの亭主族の垂涎の的(まと)になっていることは間違いなさそうである。

 うちのお殿さま

 およそ男というものは、いばりたがりやである。いわゆる空(から)元気のたぐいである。
 夫婦なら亭主関白に当たろうか。
 男性にいばりたがりやが多いのは、男性共通の奇妙なヘキであるようだ。
 といっても、みんながみんないばりたがりやではない。
 ときたまいばりたい気があっても、そのうつわでない。気負ってもはじまらない。財力もない。
お面相もふさわしくない、など、客観的な理由からいばらない人もいる。
 古い言葉でいえば脾肉(ひにく)の嘆(たん)をかこっている人もなかにはいるようだ。
 このタイブに引きかえ、チャンスがあれば「よし、いばってやろう」と、急に気負いたつ手合いもいる。
 家庭での亭主関白ならいざ知らず、特に他人様の前でいばってやろうとする自己主張型とはどんなタイブだろうか。
 職種の分布からすると、失礼ながら議員諸民を筆頭に挙げねばならない。
 もちろん、各種議員の中にはいんぎんな人もいるにはいるが、平均すれば肩を張る人が多い。いばるから胸を張る。胸を張るから声が大きくなる。声をはり上げるからだんだん顔がこわばってくる。
 近ごろの言葉で表現すれば、パフォーマンス的存在かもしれないが、この姿を弁慶が見たら恐らく脱帽するかもしれない。
 さて、さきの亭主関白だが、昔の男性は、どんなへなちょこ男でも、
「結婚したら、ボクは絶対亭主関白になる」
 と内心しかと肝に銘じていた。
 それがどうだろう。最近の亭主族の中にはもやし子みたいなのがいて、親ばなれができなく、いつもだれかに頼っていないとひとり歩きがむつかしい人がいる。
 その頼りない男性の中に、ひときわ輝いている男性がいて、
「うむ、ボクは責任をもって女房を養うぞ」
 こう言う勇ましい気骨のある男性は、このごろごく少なくなってきたように思う。
 それが証拠に、もやし子の代表みたいな姉さん女房が近ごろ急に多くなってきたことでも明白だ。
 まことに情けない話だが、独立独歩ができない亭主は、やさしさも、頼もしさもへったくれもない。むしろ、男性のやさしさを求めている女性にとっては、全く期待はずれになってしまう。
 もっとも世の女性(女房も)の多くは、亭主に「頼りがいのある男性像」を望んでいる。
 こんな夫婦もいる。
 例えば、結婚前、亭主は「給料がいくら、住宅はこれこれ・・・・・」と、至れり尽せりの好条件を並ベておいて、実際は全く逆だったことを女房が知ったとき、女房はどれだけ嘆き悲しむことか。
 以上のように、へなちょこ亭主を洗いざらしにすると、模範亭主像というか、そこまでいかなくとも、まあまあの亭主はこの世に何パーセントいるだろうかと思う。
 そんな他愛ないことを考えたりする。
 ところで古い話で恐れ入るが、獅子文六の「自由学校」に出てくる五百助タイブの、ノホホン亭主を急に思い出した。こういう亭主にはしっかり女房がついていて、
「あなた、のんきなこと言って。ものごとをもう少しテキパキやれないの」
 と少々歯がゆさがあっても、
「ぐうたら亭主より、少しぐらいなら寸足らずの亭主がましかも・・・・・」
 と律義なことをおっしゃる。
 しかしながら、女性は一般に母性愛が強いので、少々亭主が昼あんどんでも、芯底は「うちのお殿様」とたてまつっているようである。

 女房と味噌は古いほどよい

アメリカナイズされてきたのか、当節は離婚が増えてきたように思う。
 夫婦が離婚するには、双方によほど深い事情があると思うが、結婚をするときは「この人と生涯を共に」という強い意志のもとに結ばれたのに、ふとしたことから破局が訪れようとはだれが予想したであろうか。
 まことに不幸なことであるが、それも離婚することにより、災い変じて福となるのであれば、それもいたしかたあるまい。
 しかし、最近、辛抱をする心が浮薄になってきたのでないかと思う。
 昔のように儒教の精神にならされていた当時の結婚は、それなりの使命感、義務感、道徳感といったものがあった。
 それだけに、夫婦の格言、教訓が座右に備わっていた。
 偕老同穴の契、嫁して二夫にまじえず、夫に素顔見せるな、女房は山の神百石の位(くらい)、夫婦は一心同体などの教訓があり、これとは別な言葉もないことはなかった。
 仲のよい夫婦に水をさすようだが、こんな言葉があった。
「縞と女房は好き好き」で、この意味は、人の女房を見て「なんであんな女と」とけなしても、着物の縞柄も女房と同じで、人は好き好き、本人がよければそれでよいではないか、他からとやかく言うべきでないという逆説もあった。
 この言葉にちなんで「知らぬは亭主ばかりなり」というおだやかならぬ言葉もあった。
 これは、浮気は男だけがするものとは限らないという笑えぬ警句である、今様なら不倫だが、浮気はだれも知らぬと思っても、悪事千里をはしるで、たいていはみんな知っている。
 次は離婚めいた言葉に面白い言葉がある。
「好き連(づ)れは、泣き連(づ)れ」である。
 どんなに熱烈な恋愛結婚をしても、夫婦というものは、そういつまでもベタベタするわけにはいかない。世間にはほれたはれたでいっしょになりながら、不幸になっているケースはいくらでもある。
「好きで好き連れ、末(すえ)泣き別れ」とも言うが、これが人間のしがらみかもしれない。
 同じ言葉をもう一つ。
「女房百日、馬二十日(はつか)」である。
 どんな名馬を手に入れても、二十日もたてばほとんどあきがくる。女房だって同じこと。百日も
てば珍しくもなんともなくなり、またぞろ他の女性に色目をつかうようになる。
 男のあきっぽさは、今も昔も変わりがない。
「男ごころと秋の空」は「女ごころ・・・・・」でなく「男ごころ・・・・・」が本命だろう。
女房をこき下して失礼だが「女房十八、われ二十(はたち)」は、亭主、女房ともどもの願望である。すなわち、結婚して十年たつと、亭主はくたびれた女房の寝顔を見ながらためいきをつき「女房十八、われ二十か。新婚時代にかえれたらなあ…」と、勝手なことを言う。
 このためいき、亭主ばかりではない。「男女雇用機会均等法」ができてからは、女房もまた亭主に負けじと、鼻意気の荒いことをのたまう。
 さて、永年、苦楽を共にしてきた妻は大切にすべきであることを「糟糠の妻」という。
 長年つれそった女房、そして苦労をかけた妻は、どんなぐうたらな亭主でもいたく感謝するものだが「女房と味噌は古いほどよい」という古妻願望の亭主もいる。
 古い女房だと、気ごころを知っているから、安心してもたれかかれる。結局は、古い女房ほど、それなりの味があってよいというのが本音である。「女房とタタミは新しい方がよい」なんて言う亭主族は、単身赴任を二、三カ月経験すればその痛みがわかるだろう。
世の亭主族、ゆめゆめ離婚など考えないことだ。

 生れ変わったら

「何だかんだ言っても亭主(女房)ほどありがたいものはない」
 という告白こそ、ほとんどの夫婦はこう言って互いに感謝し合う。
 だのに、同窓会での女房族の言い草は全くふるっている。
「今度生れ変わったら決して今の亭主とは一緒にならない。ケチで強欲で、あんな宿六はもうたくさん」
 と意気盛んなことを言う。
 同窓会ならずとも、井戸端会議(今ではこう呼ばないが)での女房族の「亭主こき下し」は目に余るものがあるらしい。
 まあしかし、自分の亭主を下げしむのは、ほめちぎるより耳ざわりがよい。
 たいていは、もののたとえにあやかって、
「亭主元気で留守がいいって言うじゃないの。これ私たちの願望。生活費さえくれれば、私は何も言わないわよ」
 この程度ならまだましだが、
「あんな亭主、好きな女でもできりゃあ、ノシつけてくれてやってもいいのよ」
 と心にもないことをおっ放つ。
この言葉、まともに受け取ったら「あなた、どこまでアホなの」と、友だちから冷やかされるのがオチである。
 この間、TV番組で、レポーターが、
「あなた離婚を考えたことがありますか」
「今度生れ変わったら現在の夫と一緒になりますか」
 二つのテーマで、道行く人にマイクを向けていた。
インタビューされて面くらったのか、突然よそ行きの言葉で、
「そうね、離婚?考えたことないわね」
「今のかみさんはよくしてくれるから、また、一緒になるかな」
 など相手を気づかってか、真面目なことを言う。あとはお茶を濁ごして二タツと笑う。
 ここで本音と建前なる文字を思い出した。
「あんなこと言っているが、本音はわからないわね。相手もそう言っているかもね」
 そんな陰の声が聞こえそうである。
一般に男も女も色気をにじませながら互いに寄り添うと妙な気になるが、色気がなくなったら、もはやこの世は砂をかむようで味気ない。生きる望みも半減してしまう。
 特に女性は、ほどよい色気があってこそ魅力があるように思う。媚薬とはいわないが、何かしら相乗作用やオーバーラップによって歯車がうまく噛み合うような気がしてならない。
 逆に色気もなく、ガツガツ、ゴツゴツしていたのでは、気が立ってしようがない。
 さて、魅力の根源といわれる色気とは何か。
 色気の定義はとらえどころがない。だから定義めいたことは書きづらいが、結局は平板だが男と女のフィーリングでないかと思う。
 つまり、男は男としての本来の魅力と男らしさであろう。女は女としての色気、女らしさであろう。そこらのものが有形無形に作用して、相手をヘナヘナとさせるのである。
 魅力というものは作ろうとして作られるものではない。いわゆるその人のもって生まれたオリジナリティーなものである。
 しかしながら、夫婦は平素はケンカ三昧であっても、いざというときには頼りになる。
 かりに亭主が病気になって床についているときは、なにくれとなく女房が世話をやく。
 夫婦は常日ごろは気やすいこととて、口返事をして「こんちくしょう」とにぎりこぶしをしても、切羽つまったときには、女房はかいがいしく立ち振舞う。
 そんな女房のうしろ姿を見て亭主は手を合わすこともあるといわれるが、なるほどと思う。
 また、立場を換えて亭主が女房の枕もとで夜っぴて世話をやく図を考えたら、女房も人の子、目がしらが熱くなるという。

おわり

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