ホームエッセイほろ酔い人生

ほろ酔い人生

A Life Like A happy Drink

●サラリーマン人生雑話

 あなたが先に死んだら

 「お父さんが先に死んだら・・・・・」
 女房は十年ぐらい前から、ことあるごとにこう言う。
 十年ほど前なら私は五十歳前後だから、当時は「男は先に死ぬものなり」と達観していたし、死などまだ先のことだとタカをくくっていたから、さほど気にとめていなかった。
 がしかし、十年前と今とは違う。年齢はいやおうなしに過ぎて行く。 
″十年ひと昔″といわれるように、十年は何事によらず、ものの尺度にされている。十年過ぎたら森羅万象ごろりと変わる。お面相も次第にヒネてくるし、シワも三、四本ふえ、シラガもでき、頭も光ってくる。加齢するごとに当然死期も近づいてくる。事故死でない限り老人が先に鬼籍にはいるのが順当。
 だから「先に死んだら」は、仮定でなく当然の成り行きかもしれない。
 とは言いながら、あらためて「死んだら」と言われてみれば面白くない。宿命が現実に変わって身につまされる思いがする。そして、「ボクもいつコロッと死ぬかもしれないぞ」
 とハタと死を意識しても、やはり生きている以上、だれだって死にたくない。生に執着するのは当たり前。とはいえ、「そうたやすくくたばってたまるか」
 といささか反逆精神が起きようというものだ。
 だとしても「お父さんが死んだら・・・・・」 と言われてみると、なるほどお迎えが近づいてきたのだな、と思う。さりとて、これから何年生きられるだろうか、と慎重に指折り数えてみるが、余命は案外少ないのにびっくりさせられる。

 さて、わが国の平均寿命は、たいそう伸びて、女性八十歳、男性七十五歳になったという。この長寿は北欧の諸国を抜いて世界一だそうだ。伸びに伸びたものだ。
 死亡原因一位のガンが征圧できたら、なお数年伸びるかもしれない、と識者はいう。だが、あまり伸びてもいろいろ不都合なことが派生しかねない。
 恐らく七十歳を越したら、生身の五臓六腑何が起きるかもしれたものでない。昨日まで健康だった人が、「あの人がね−」 と信じられない悲報を聞くことがしばしばある。
 しかし、つらつら考えるに、夫婦ともども健康であればいつまでも長生きするのはめでたいことだが、いったん病魔にとりつかれて自弁ができないようになったら、長生きが重荷になってくる。

 私は数年前、胃ガンで死に直面した従弟をある病院に見舞ったことがある。頬はやせこけ、目が落ち込み、くすんで死相を呈していた。
 主治医は近親者の前で、臨終を告げた。三十九歳の若さであった。憔悴しきった体なのに、なぜか意識がはっきりしていた。
 「ボクはもう死ぬんだなあ」
 彼はそう言って、死の恐怖に戦いていたようだった。
 危篤が続いた。近親者が続々と集まった。そして悲痛な空気がただよった。 彼はただならぬ状態をさとったのか、うつろな目を精いっぱい開こうとしていた。名状しがたい数分が続いた。彼の姉は沈黙をぬぐうかのように、
 「いいところへ行くのよ」
 と彼にそう告げると、彼はかすかにうなずいた。あたりは慟哭につつまれた。まもなく彼は息を引きとったのである。

 ガンの断末魔ほど哀れなものはないという。その苦しみを避けたいため、
 「死ぬときはポツクリいきたい」
 ほとんどの人はこう思う。これがほんとうの願望なのかもしれない。
 苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて死ぬより、なんの苦痛もなく、ある日突然死ねたら−と願う。
 また、長年連れ添った夫婦は、楷老同穴の契りから、「できれば夫婦一緒に死にたい」                           ∂
 と思う。これは大方の夫婦、ことに世の女房たちはそう願っているのではないか。
 だが、死ばかりはそうはいかない。夫婦がクルマもろとも交通事故にあって死ぬか、または二人そろって自殺するかでない限り、そうたやすく二人が一緒に死ぬことはできない。
 それほど死とは、神聖にして侵すことはできないのである。だのに、退屈にまかせて、「亭主は女房より先に死ぬ」と断定的に言われたら、仏の顔も三度である。
 たとえ統計上男が早く死ぬとされていても、亭主たちはやみくもに受け取りがたい。女房だってフグ中毒で一夜にしてコロッとオダプツになることだってあるではないか。
「死んでたまるか」
 ほとんどの亭主はこう力む。力んでもはじまらないが、これが瀬戸際の男の叫びであろう。
 片や亭主に先立たれた女房は、生前亭主がもらっていた老齢年金の約半分をくれるはずだし、多情な未亡人は、「条件さえそろえば後家万々歳だよね」とほくそえんでいるに違いあるまい。

 では女房に先立たれた亭主たる男ヤモメの余生はどうか。
 この様子を、酒友でありしかも悪友である友人に尋ねたら、
「困らないね、全く」
 とヤセがまんを張り、
「ポクはその昔軍隊にいたからね。掃除、洗濯、飯たき、何でもござれだ。山の神がいないと自由奔放に暮らせるわけだ。なに?男ヤモメにウジがわく、わからないね。そりゃだれの寝言だ」
 彼は案外ケロッとしている。大言壮語だ。
さらにまた、「セカンドライフはバラ色だね」
 と溜飲を下げるあたりは、どうやら、目下いい人がいるのかもしれない。彼の得意然とした面構えに水をさすように、別の悪友が、
「娘さんたちが『お父さん、再婚なんてやらしいわ』と茶々を入れたらどうする」
 ホコ先が変わった。彼は憮然として、
「当節流行の茶飲み友達ってのがあるだろう。あの茶飲みなんてきれいごとだよ。たいていは夫婦然としている。わかるかい。娘もわかってくれるよ。そこらは」
「そう思っていたら世話ないさ」
 悪友はサジを投げた。
 彼の持論だと、男ヤモメにウジがわくのは甲斐性なしで、近ごろの老人たちはウジ変じて花が咲くらしい。
 まあ、たとえ男ヤモメに花が咲くとしても、男が無為に家庭でゴロゴロしていては厄介だ。ことに趣味もなく、ユーモアもない老人こそ退屈である。
 暇にまかせて三流テレビドラマを見つつ鼻毛を抜き、プツと吹き飛ばすさえない老人−。こういう老人に限って、口を開けば滔々と時局を論じ、おだてればかつての若き時代を自画自賛し、折にふれにくまれ口をたたく−。これこそ若者から見れば顰蹙老人のなれの果てだとさげすむだろう。

 夫婦いずれが先に死ぬか、という問答は、やればキリがない。
 亭主に先立たれた女房は、現在の年齢指数から算出すると平均十年の寡婦生活を余儀なくされる。その十年間が後家の花盛りというが、妻と死別または生別した場合の夫の余命は、わずか三年間であると、ものの本に出ていた。
 そういえば、夫婦は片方が死ぬと片方があとを追うように死ぬ例をよく耳にする。長年連れ添った相棒に死なれた当人の追慕は痛いほどよくわかる。
 夫婦たがいに健康なときに限って、空気のようだ、離婚だ、ハチの頭だといさかいの絶えない夫婦でも、いずれはどちらかが先に死ぬとさとれば途端に神妙になるから不思議だ。夫婦の心理状態は全く不可解である。
 昔、人生五十年といった当時の夫婦共存期間は、平均二十三年だったそうだ。
 ところが人生八十年になった現在では、二十三年が五十四年に延びた。
 思えば夫婦とは長い間、雨が降っても風が吹いても、鬼がわらとおかめさんが膝をつき合わせて暮さねばならない。それが夫婦というものである。
 まさしく、夫婦は最高にして最良のパートナーといえる。
夫婦は仲よくせねばならぬ。

 視  線

 街を歩いていると平素滅多に会っていない知人や友人にひょっこり会うことがある。
「やあやあ、お元気ですか」
 など言って握手したりするが、旧友との遼遠はなつかしい。
 時には長い間ごぶさたしていると名前が思い出せないときがあって、不覚にも、
「失礼ですが、どなたでしたか」
 と尋ねる。
 先様が当方を十分承知しているのに、名前を尋ねるのは失礼この上なしである。よほどのことでない限り「どなたですか」 は、口にすべきではないと、つくづく反省させられる。
 さりとて、過去に面識があるのに白々しい応答はできず、ただ、当たらず触らずの奇妙な受け答えだけで終始してしまうこともある。
 でも、久しく会わない人の印象は、一瞬、
「老けたなあ」 と思うときがある。
「老けたなあ」と直感するのは、顔のシワだったり、頭の光り、白髪やゴマジオだったりである。
 とはいいながら、会った途端、しげしげ見るわけにいかず、その数秒間は視線のやり場に困ることがある。
 こんな場合の視線は、こころにもなく今日的な話題でごまかし、うまい具合いにつくろうのがよろしいようである。視線とはそれはど意味が深いように思う。
 俗に「目は口ほどにものをいい」というが「老けたなあ」と思うときは、まさに口ほどに...の感じをかくし得ない。
 私たちが職場にしろ、接遇にしろ、対話をする場合、
「話をするときは相手の目を見よ」
 と痛いほど教え込まれた。対話中の着眼点を目に置いたことは、「あなたの話に、私は心を集中して聞いています」 という道徳的な感覚が盛り込まれているのである。

 サラリーマンやOLは、仕事も大切であるが、二次的には人間関係をよくすることも重要であることはいうまでもない。
 むしろ、職場の道徳観を律するには人間関係をよくすること以外にはない。
 人間の世界ばかりでなく、動物でさえ、本能的な環境への同化作用、適応作用といったものを持ち合わせている。生理的にも同じ理屈が成り立つ。
 例えば、血液の循環、呼吸、骨格、筋肉系統など内系外系もろもろのものは環境への順応を余儀なくされる。
 例えば高地族がその土地になれて何不自由なく生活しているのは、もとは環境への同化、順応がうまくいっているためであろう。
 ポピュラーな教えに「郷に入れば郷に従え」という言葉がある。この意味は、むろん自分の住む場所、職場のカラーやしきたりに従うのがよい、ということである。
 職場の同化、つまり人間関係をよくすることは、とりもなおさず、職場人とうまくつき合うことに尽きる。
 また、うまくつき合うことは「うまく泳ぐ」 ことではない。心の底からつき合うことを第一義に考えなくてはならないと思う。心の底からつき合う心があれば、どんな人でも目をそむけることは決してしないであろう。

 では、目(視線) は人間関係とどんな相関作用があるだろうか、ということに衝き当たる。
 さきに書いた「目は口はどにものをいい」 のとおり、目の表情、つまり目の輝き、目の色、目のかたち真剣さ、視線の容(かたち)といったものを第三者から見れば、およそその人の目の表情が読み取れる。
 すなわち、その人が現在どんなことを考えているか。その目になごやかさ、やさしさがあるか。けわしい目でないか。そんな顔の抑揚といった心のうちがよくわかる。
 特に女性にはそれが強く現れるのであるまいか。
 もともと女性は女らしさ、やさしさがあるか、ないかによって全体を評価される場合が多い。このことは、女性は元来感情にはしりやすい(おぽれやすい)ため、そのままの感情が目や顔に現れ、ときにはうっかり心を見ぬかれてしまうことさえある。

 このように考えてくると、目ほど表情が豊かなものはないと思う。人の目をみればすぐわかる、といった言葉もそこらから出たものと思われる。
 とりわけ、女性の目は美人の条件にされていることはよく知られている。

 明眸皓歯(めいぼうこうし)という文字も、澄んだ目、白い歯を象徴してのことだろう。
 たしかに日のきれいな人は美人であるようだ。私も澄んだ目や黒い瞳に心ひかれる。日のきれいな女性に 「ひとみ」と名づけている人がいるが、むべなるかなと思う。
 世に「目で殺す」という言葉がある。いささか妖艶さ、濃艶さをかくし得ないが、もちろんこの言葉は女の目で男を悩殺するという意味である。
 色気たっぷりな女房が、三年目の浮気でやり合ったのち、結局はやおら片目を閉じ、うわ目づかいに、「浮気しちゃ、イヤ」
 と言って、亭主のふとももをキュツとひねる。あのときの目は、まさに「目で殺す」を地で行く図であるまいか。
 ここで傍にいる口の悪い友人が口をはさんだ。
「くたびれた女房のどこにそんな色気があるんかいなあ」
「これは例えばの話だ」
「例えもハチの頭もあるか。そういう矛盾したことを考えちゃいかん」
「では、愛人ならどうだ」
「ウム。愛人なら片目だの、つねるだの、それはやりかねんなあ」
 友人はやっと納得した。
 こんな、たかがしれた問答にロをはさむのは本意ではないが、ふやけくたびれた、おかめの女房に色気などあろうはずがないのに、口さのない友人はなぜ女房を引き合いに出したのだろうか。

 目についてとりとめないことを話していると、知人 (二十五歳の女性) が私にこう耳うちした。
「紳士と思っていた人でも、エツチな人がいるのよ」
 彼女の捨ておけぬ言葉に私は驚いた。
「街を歩いていて、私のバストをしげしげ見る人がいるの」
「しげしげとは」
「胸のあたりに向いているのよ、男の目が。視線でわかるわ。イヤーね」
 この女性、少々自信過剰でないか、さもなくば自尊心が高いのか、そう私は思った。
 だれだって自己の優位なところは見せたい。反面、恥部は隠そうとする。これが人間心理である。
 それからすると、この女性はバストに自信がありそうにみえる。「イヤーね」と言う本音は「私は胸に自信があるの」 と言いたげであるとしか受けとれない。
 自己顕示欲、自己主張の強い人は、意外と、こともなげにオーバーに表現しがち。
 しかし、いずれにしろ、視線というものは。知人であろうと面識がなくとも、街中ではテラチラと合うものである。
 ことに、恋人同志の目くばりは文字どおり「目で殺される」が、心に影を持つ人は、とかく暗い視線を落としているように見える。
 いろいろ目の表情について岡目八目的に触れてみたが、何としても目は生きものである。
 ことに、流し目だの、目を皿にしてだの、目は形容詞として使われる場合が多いだけに、それだけ目の含みといったものも多様であるように思う。

言葉の演技

 さる三月、県内のある高校の卒業式に参列し、卒業生代表の答辞を聞いた父兄は、
「まあ、答辞が素晴しかった。うちの子供の親友が答辞をしたの。語調といい、間合いといい、形容詞といい、うまいのね。馴れというのかしら、演技が抜群なのね。聞きほれたわ」
一瀉千里にこう言うのである。
 ベタほめである。
 答辞をした生徒が父兄の子の親友だったので余計に感激したのかもしれない。
 ともかく、この父兄は答辞に感動したのである。そして演技がうまいとも言った。
 そこまで聞いて、卒業生の答辞のアウトラインみたいなものが、わかった。
 そこで私は考えた。
 大勢の前で話をするときのコツは、説得力があること、訴える力があることであり、しかも相手を退屈させないことだと思う。
 つまり、総じて聴衆を魅了させることに尽きるのでないか。
「魅了する」という言葉のほかには、いろんな同義語があろうかと思うが、魅了の次に来るものは、感激であり感動ということになろう。
 魅了といえば、私たちが映画館で演技力のうまい俳優の、入神の域に達するような演技を見て、映画館を出た途端、映画の余韻が脳裏に残っていて、自分がヒーローまたはヒロインになったようなさわやかな錯覚を覚えるときがある。
 この余韻が魅了する、魅了させられたというのであろう。

 私事で恐れ入るが、かなり前、四国放送の番組審議会の委員をしていたとき、所用でTBSのスタジオで佐久間良子さんと話をする機会があった。
 たしか高橋幸治さんと現代劇を撮っていたときである。
 その際演技の話が出て、失礼を顧みず、
「役者さんは、ご自分のキャラクター以外の演技では、かなり骨が折れるでしょうね」
 の愚問に、
「私などは未熟なので、えらそうなことは言えませんが・・・・・」
 と前置きして、
「その人物になり切ることでしょうね。はまり役や、当たり役なら別ですが、やはり幾度もリハーサルしたり、あの場合はああすればよい、こうすればよいと、私なりに考えて勉強しています」
 と彼女は謙虚にそう言った。
「その人物になり切る」というのは、演技者としては当然のことと思うが、あらためて言われてみれば「なるほど」と思う。
 さきの卒業生の答辞のうまさも佐久間さんの「人物になり切るコツをうまくつかんでいる」ことになるのだろうか。

 フィーリングという言葉がある。申すまでもなくFEELINGと書き、意味は情操とか感情である。日本製の意味は少し違っていて、このほか余韻、ふんい気など、ムード的な意味合いがちょっぴり含まれているように思う。
 答辞では、卒業式という厳粛なセレモニーだし、たまたまセンチメンタリズムな空気に閉ざされているとき、素晴しい答辞を聞かされたら、聴衆は感情に感情がオーバーラップされて、さらに深刻になるのであるまいか。
 佐久間さんの言う「その人物になり切る」ゆえんも、ストーリーに加えて演技が抜群だったとしたら、余韻蕭々(しょうしょう)たるものがあるであろうし、恐らく、思わず劇中の人物に引き入れられることにな
ろう。

 いずれにしても、人前で話をする場合は、例えば言葉に山あり、起伏があるとより変化に富む。
 がしかし、聴衆を魅了させるという視点からみれば、言葉の演技をプラスさせるにこしたことはない。
 演技がうまいということは、とりもなおさず聴衆を陶酔させることである。陶酔は魅了とイコールだ。
 ところで、さきの高校生の答辞がうまかったことに関連して、私はそれに似たような経験がある。
 かつて、徳島市内のある中学校の弁論大会の審査に立ち会ったときのことである。
 男子十五名の生徒が、全校生を前に自作の身辺の話を、十五分(だったと思う) にまとめて弁論をたたかわせたのである。
 中学生だから、要所要所を力説したり、腕をふるったりのジェスチャーはあまり見られなかった。
 まして話し方に抑揚をはさむといったテクニックもなかった。
 審査員三名、講演者一人当たり五点満点で、
一、テーマ
二、話し方
三、受けた感想
 に区分して行ったが、私は当初から、抑揚(話し方)を中心にして厳正に審査させてもらった。
 しかし、結果的にはそれは低調であった。が、中学生にのっけから抑揚の有無をうんぬんすることこそ無理だったことがあとで分かった。
 もともと、中学生の弁論大会は、さきの答辞のように、卒業式という背景もなければ客観性もない。
 どちらかといえば、ひとり舞台である。
 弁論する者みずからがムードを高めなければならないのだ。
 これは中学生としては至難な業である。
 しかしながら、中学生には純真という武器がある。
 純真は、おとなたちが決して真似ができないものである。私はそう悟って、審査の方法を変えた。
 純真さを抑揚に変えて採点させてもらった。ところが意外にも十五名全部にその差が見られなかった。それほど子供たちは純真にして無垢だったのである。
 結局は、三者三様の意見を調整して等位を決めることにした。
 弁論は、弁論する人のぼつぽつたる何物かをつかむことも一つのポイントである。
 言葉は考えれば訴えるメンタリティなものを把握することである。

 ひるがえって、演技を私たち庶民の生活に当てはめるとどうなるかを、私なりに考えてみたい。
 庶民の実生活には演技、つまり、ややニュアンスは違うが実生活が虚飾にまで及んだらいけないと思う。
 なぜなら、実生活には演技とはいかないまでも、偽善的な色彩はタプーとしなければならないからである。
 万一、偽善的なことや偽りのことがまかり通ると、相互間に人格を損うことになりかねない。
 また「ウソも方便」という俗語があるが、この場合のウソは、演技にかかわりなく罪悪感のない、ちょっぴりパロディー的なウソを指している。
 いうなれば、エイプリル・フールみたいなさわやかさがあって、諧謔的(かいぎっや)くなものがふさわしい。
 演技のことから飛躍した連想が許されるとしたら、私たちは、演技とは別に、日常窓意的に人と言葉を交わす楓会が多い。
 その中で、あいさつに集約すれば、あいさつは、人間関係を良くすることはあっても悪くすることはない。
 例えば、日常笑顔で「こんにちは」「ありがとう」(ありがとうございました)「失礼しました」「すみません」 といった、ごく簡単な言葉を使う。
 サービス業務なら「いらっしやいませ」「今後ともよろしくお願いいたします」がある。
 どの言葉にも真意がこもっていて、一分のスキも演技もないところがフェアでリアルだ。
 ともかく、あいさつは、生きとし生けるものの基本的な所作であることには間違いなく、一般的には言葉は人間関係をよくし、感情を豊かにする好個のエッセンスであるが、その綾(あや)は複雑にして深遠である。

 テレビには食事のシーンが多い

 テレビを見ていて思うことがある。
 その一つは、食事のシーンである。ホームドラマならテーブルを囲んでの食事。恋人同志なら喫茶店。飲んべえ同志なら居酒屋(赤のれん、パブともいう)といったあんばい−。
 家族同志はレストランか食堂。冬の駅前や裏街では、うらぶれた屋台でラーメンを畷(すす)るシーン。
 屋台はなんとなく庶民的なムードがただようが、反面ドロ臭い。
 酔たんぽが屋台に頭をつっ込み、「ダンナ、今夜はこれぐらいにしてお帰りなせえ。ひでえ酔っぱらってますよ」
 と屋台の主人に説教されると、
「オヤジもういっぱいだ」
 とゴネるシーンがある。
 そんなときの飲んべえにはもろもろの事情があって、ほとんどヤケ酒をあおっているのでないか。
 ヤケ酒は失恋、家庭内でのいざこざ、会社でのトラブルなど、原因はさまざまだが、はかりしれない人間模様の中で、苦悩にさいなまれ、にっちもさっちもいかなくなり、つい、ふらっと赤のれんをくぐる−というのが筋である。
 およそサラリーマンだと、先輩後輩が同席して、
「先輩、聞いてくださいよ。ボクのどこがいけないのでしょうか」
 と泣きの訴えに、
「まかしておき給え。悪いようにはしないから…」
 先輩は先輩らしく、やさしく言って後輩をこうなぐさめる。
 先輩、後輩は、アクシデントがあるたびに酒を飲み交わし、なんとなく意気投合する。後輩は感窮まって先輩の手を両手で握り頭を下げる。
 男と男の劇的シーンである。

 テレビによく出るもう一つのシーンは、机またはテーブルを囲んで対談(簡単な話から重要な話、密談など)するときに、どちらかが、椅子をはずして窓際へ行ったり、手をポケットに入れて五、六歩足を運びながら会話をする、というくだりがよく出てくる。
 よくあるのは、社員が重役室で重役と対談するシーンである。
 社員が開口一番、
「かねがねA社との経済協力について下交渉をしてきましたが、本日午後五時から正式交渉をした
いという申込みがございまして…」
 など言えば重役は、
 「うむ、そうだね。じや、例の書類を持って行こう」
 と一言二言答えると、やおら席を立ち、窓際あたりへ行って振り返り、タバコに火をつけて社員の顔をチラッと見る。
 こんなありふれたシーンが、どのテレビにも、こともなげによく使われている。
一般に対談風景は、テーブルを挟んで真正面から、またはテーブルの角を挟んで両サイドに席をとって話すのがパターンになっている。
                                           
 だが、よく考えたら、話の途中で席をはずし、立って話したり、チョロチョロ徘徊(はいかい)するのは相手
にとって失礼千万である。
 話は双方が顔を向い合い、相手の目を見ながら真剣に話すのがエチケットである。
 また、刑事が被疑者を取調べるには、いろんな仕草、ジエスチァーをしながら泥をはかせるのが犯罪捜査の手である。
 だから、一対一、一対三と、時に適したスタイルで対談し、会議し、話をする場合など、その目的によって区々である。

 テレビでもラジオでも、そして、舞台でもそうだが、視聴者や観客に見せたり聞いてもらう場合は、
「瞬時も退屈させてはいけない」
 という鉄則があるという。
 このことについて、その昔、民放審議会に委嘱されていたころ、
「考えごとをするシーン以外には動作を停止してはいけない」
 という意味のことをその筋から教えてくれたことがあった。
 いわゆる、放送中に停止することは、テレビではNGになるわけだ。
 動作を停止するのもそうなら、アナウンサーがアナウンス中にナレーションを止めるのもタブーとされている。だから、「エー」「ウー」「アー」などの、接続詞まがいの言葉はつとめて使わないようにする、とある。
 インタビューのときは、相手の話が切れたときは、アナウンサーは間髪を入れずに助け舟を出す、ということになっているという。
 そのために、番組ごとにディレクターが配置されていて、飛行場の管制官よろしく、統制をしながらシグナルを送り、うまく調整している。
 また、テレビ番組での食事シーンでの俳優たちは、ただむやみやたらに、食べ、飲み、口をモグモグさせているのではない。
 こうして、ああして、次は箸を持ち、食べて、せりふを言う、と細々(こまこま)と脚本にしるされている。
 ドラマにはこうした定めがあるから、俳優さんは、脚本を忠実に守り、ディレクターの合図にしたがって、行動しなければならない。
 しかも面白いことには、脚本に、
「食べるときは、わずかにペチャペチャ音をたてる!」
 と書いてあるという。
 テレビは音と映像が生命だから、ペチャペチャ表現も演技の一つになっており、時に、「ごはんを食べるとき、ママは『ペチャペチャと昔をたててはいけないのよ』と言ったのに、テレビはなぜなの」
 という子供の問いに母親は何と答えてよいだろうか。
 そういえば私たち庶民も、明治のオヤジから、
「ペチャペチャは犬と同じだ」
 とこっぴどく、しかりとばされたものだ。

 現実とテレビとの矛盾、へだたりにはそのほかいくらかある。
 親とむすこの会話のやりとりに、むすこは親に対してしばしばこんな言葉を使うシーンがある。
「かあさんがやればいいじゃないか」
「とうさんがやってくれよ」
 この「ないか」と「くれよ」 の響きはあまりよくない。まるで、目下の者に命令しているように聞こえる。
 親、師、上役、年長者にはそれ相応の敬語があるはずだ。
 まさしく、親子の対話には、以上のように、道徳観などを全く無視した言葉を使うのは、テレビの影響が昨今大きいだけに、テレビ制作スタッフはよくよく注意してもらいたいものだと思う。
一般に、テレビは興行を主体にしているので、何事によらずオーバーに表現する場合が多く、また感動、感銘のシーンは感情を凝らして、これでもか、これでもかといった手法でプロデュースする傾向がある。
 こういう制作意図が底流にあるから、視聴者にとっては、さきの子の親に対する言葉使いのように、なんとなく拒否反応みたいな違和感をいだかざるを得ないのである。
                                       
 多くの人は、これらの作品を見て、どれだけの人びとがドラマの内容を咀嚼(そしゃく)し吸収するだけの許容力を持ち合わせているだろうか。
 また、実社会とドラマを比較して、どれだけの人が理性と分別ある知恵を働かせることができるであろうかと思う。
 その判定はむつかしい。
 私たちは、何事によらず、冷静に判断し、良いところは身につけるようにし、そうでないものは切り捨てるだけの怜悧(れいり)な心を、平素から養っておきたいものだと思う。

 カラオケブーム

 カラオケ・ブームである。
 徳島県下どこへ行ってもカラオケ同好会があって、たがいに研を競っている。
 同好会の会員の中には随分うまい人がいる。
 くろうとはだしと言われるほどの人も多く、近ごろは舞台衣装もパリッとしてスキがない。
 音響効果も抜群で、適当にエコーを入れ、聞かせる歌にしている。
 舞台度胸も満点だ。
 拍手をすると一層奮いたつ。
 観客席から見れば、歌に酔いしれているようにも見える。無理もない。
 歌を聞かせるためには、観客を陶酔させればよい。決してあくびをさせてはいけないのだ。これが鉄則だ。
 これでもか、これでもかの手を使って観客を自分の掌中に入れ込み、メルヘンの世界に誘う。
 このようにえらそうに言っても私は正真正銘の音痴である。
 歌えないから聞くことでカバーするとする。そんな屁理屈は成り立つだろうか。
 カラオケを聞いていると、なんとなく気がはずむ。この気持よさをフィーリングとか言っているが、乳牛でさえ、メロディーやリズムに陶酔すると乳がよく出るそうだから、歌は多分にメンタルな感覚が強いように思う。

 歌のうまさは、どうやら遺伝するものらしい。プロ歌手の子や兄弟はたいていうまい。
 メディカルな領域だと、血族の体質は一般に遺伝または酷似しているといわれているから、彼らには歌の遺伝因子的なものがあるのだろうか。これはつまり、血液型と同じように考えてよいのだろうか、と思ったりするが、その論理からすると、私の祖先は歌はうまくなかったような気がする。
 父はバイオリンを弾くのが好きで、レパートリーは二つ三つぐらいだし、母は″枯れすすき″や″真白き富士の嶺″を口ずさむ程度で、声も節回しもまあまあで、メチャクチヤではなかったように思う。だのに、私が歌うと音程が崩れっぱなしとはどういうわけか。

 でも、歌いっぷりを弥次馬的に批評するのは面白い。さしずめ即席評論家イズムで、碁でいえば
″おかめ八日″ のおかめのたぐいになろうか。
 人のことをとやかく言う無責任さは、まことにけしからん話で、それ以前にわがふり(音痴)を直さねばという反省も大いにある。さて、私は毎週ほとんどNHKの″のど自慢″を見ている。この番組は楽しい。奇妙きてれつなおっさんが特別賞をもらい、鐘三つ組のトップにはチャンピオン賞がもらえるなど、庶民のふんいきをかもし出している。
 鐘三つはさすがと思うが、この番組はいわばお遊びだから、歌の上手下手は存外かも⊥れないが。
 専門家がよく言う、歌のメリハリ、歌詞の正確さ、声を前へ出すなどのこむつかしいことは和は知らない。でも歌の全体的なうまさ、フィーリング、抑揚のあるなしなどは、なんとなくわかるような気がする。

 カラオケといえば、私はいつもあの観光バスを思い出しギョッとさせられる。
 ときたま、イキなガイドさんが、
「歌のうまくない方は、たってとは申しません。歌った人が指名するなんて、そんな野暮ったいことも申しません。好きな方はジャンジャン歌ってください」
 とまさに慈悲観音菩薩のようなやさしいことをおっしゃる。
 ガイドさんがこう言ってくれたら、旅が一層楽しくなる。
 しかしながら、あまりやさしくしてくれると、われわれ音痴組は余計に気はずかしく、かえって卑屈感に襲われたりすることがある。
 はしたない話だが、そんな心境だと、バスの旅はちっとも面白くない。眠くないのにタヌキ寝をするつらさ−。これは、酒を飲んでいないのに酔ったふりをするバツの悪さと同じだ。
 だから、歌のうまい人をねたみ、うらんだりする小悪魔的な気も起きないでもない。あれこれ思い悩んだあげく、
「歌のうまい人は得だ」
 とただ単純にこのように割り切るときもある。
 こう思っているのにワル連中は、こともあろうに、
「節抜けは、それなりにご愛矯があって面白いではないか、ハハハ」
 と音痴を下げすんだり、
「音痴がよくやる、鶏の羽ばたきをやって『コケコツコー』と鳴く仕草、あれ受けるよ。満座から
拍手喝采だね」
 この言葉は音痴にとって″みじめ″ の一語に尽きる。
 また、ほかに鶴のひと声、犬の遠声、赤ちゃんの泣き声、はては豚君の鳴き声もあるが、これこそ音痴組がよくやる珍芸である。
 私の知人に、サルが頭をかき、ピーナッツを食べる格好をする、百面相の名人?がいるが、こういう芸はだれもができるものではない。
 いずれにしろ、一般に芸達者はチヤホヤされるのに、音痴組はいいようのない自虐性、自棄性に陥ることがあって、その心情はいたって複雑だ。

 これに反し、歌のうまい人は、歌の順番が来ると、時と場所に関係がなく、「OK」「待ってました」
 とすぐ乗りに乗ることができる。
 こういう人は精神衛生上大いによろしいのでないか。長命うけあいである。

歌の話になると、書くのをはばかるが、私は身の縮まる思い出がある。それは職場の女性が結婚したときの、披露宴での一幕である。
 仲人のあいさつ、職場、友人の祝詞が終わって、息つくひまもなく、司会者は声高らかに、「そろそろオミキが回ったころでしょうから歌自慢に移りたいと思います。そこで、まず手はじめに新婦の職場を代表して三木様に、さわやかなところを一つ…」
 開口一番こう来たのである。
「さわやか:・…」とは何たることか。
一連のあいさつから十分間ぐらいしか過ぎていないし、酒の量は心臓を強くするほど入っていなし、そんなときに、なぜ、どうして「三木様に」 になったのだろうか。
 照れと面映ゆさが頭にかけめぐった。急に虚脱状態になった。
「司会者は事前に予約なり、依頼なりをしておくのがエチケット」
 と心の内でいきってみたが、もはやどうにもならない。
私は心と体のたじろぎを丹田に抑え、あまり上品でない″西郷隆盛″の戯(ぎ)れ歌をやることに決めた。
「西郷隆盛、はじめてお江戸へ上るとき、石に腰かけ…・
 と、無我夢中で歌った。
 並いる人は笑いこけている。調子はずれがおかしいのか、それとも歌の文句が珍無類なのか、そこらは見当がつかないが、壇上から見ると、感激した笑い方ではなさそう。むしろ外野席的な笑い方だ。
 私は途端にげんなりさせられた。
 ともかく、サラリーマンの生涯には悲喜交々(こもごも)いろいろなことがあるものだ。これも生きておればこそだと思う。私は心機一転、今後はカラオケに精進して、これ以上、生き恥をさらさないよう力を入れたいと思っている。

 あいさつで思うこと

全国チェーンのあるサービス会社が、全社員を対象にアンケートを行った。
数ある項目の中に、
「あなたは退職したいと思ったことがありますか」
退職したいと思う理由を簡単に書いてください」
 アンケートを実施しようとした人事担当の胸のうちは、この「退職したいと思う理由」を知りたかったのである。
 この会社は、他社に比べ若い社員の退職者が非常に多いそうである。
 アンケートを回収して上役は驚いた。
 アンケート数の七五パーセントが「退職したいと思った」であり、退職したい理由は「人間関係」と、ただそれだけ書いてあったのが八六パーセントで、あとは「家事都合」であった。
 結局は「人間関係のまずさ」 による退職者が多いことがわかった。
 社員の腰が落ちつかないということは、社員の勤労意欲の喪失につながり、ひいては業務の低落を来たすことになる。これは会社にとって捨て置けない、由々しい問題である。
 上役はそう受け取った。
 としても人間関係は、いわば精神面に関係するので、おいそれとは改善できそうにもない。
 会社としていろいろ対策を講ずることになったが、結果的には上役、下役というよりか、各世代ごとの代表者を選び、全社員協議会を作って大いに論じ合ってもらうことになった。
 協議会の結果については、その後、つぶさに聞いていない。

 ある会社で新入社員の研修が、同じ会社内で行われた。
 同じ会社内だから、朝に夕に新入社員は先輩社員と顔を合わす。むろん新入社員は先輩社員にあいさつをすることになる。
 研修当初、中には照れ臭いのかあいさつをしない研修生もいたようだが、研修が進むにつれ、だんだんあいさつをするようになった。
 そのあいさつぶりが少々変わっていた。
「オスッ」
 である。
 少林寺拳法でいう、あの 「オスッ」 の構えだ。
「オスッ」はあいさつか、作法なのか、そこらは知らないが、受けた先輩は何と感ずるだろうか。
 両手のこぶしを握り、やや腰を落し、目の前にはだかって、
「オスッ」
 と真っ向から来られたら、初対面だとたじろぐ。
 また、東海大の体育学部講師の山下泰裕五段みたいな大男(180センチ、127キロ)が、五、六歩前あたりに停止し、真剣な顔をして、
「オスッ」
 とにらみつけられたら、小兵の先輩や女性は一瞬肝を冷やしてしまう。
 先輩や上役に「オスッ」は、何としても似つかわないような気がする。
 日本人の感覚からすれば、あいさつは頭を下げ、
「おはようございます」
 というのが本筋である。
 現代の若者は、なるべくなら物事を端的に処理しようとする考えがあるようだから「おはようございます」 の真ん中を省いて「オスッ」と呼ぶことにしたのだろうか。
 それ以外のことは私の浅薄な脳味噌ではわからない。

 あいさつといえば、日常見知らぬ人が町中で会ったとき、普通ならあいさつはしない。
 しかし、登山や早朝ジョギングをしているとき、つまり、登る人、下る人、そして、スポーツウェアを着てジョギングをする人たちに会うごとに、どちらともなく、
「おはようございます」
「ご苦労さまです」
 とあいさつを交わす。
 あいさつをした人、受けた人は、瞬間さわやかな気持になる。しかも良いことでもしたような満足感がこみ上げて来る。
 考えてみれば、どこのどなたか知らない人に、毎朝あいさつをするだけで一日中すがすがしさを味わえるのだから、まさに価千金である。
 健康づくりはできるし、朝から精神的爽快さを味わえるし、
「健康のエッセンスはこれだ」
 と思わず叫びたくなる。
 一声運動という言葉があるが、あいさつを一声になぞらえるなれば、これこそさわやかな運動であるまいかと思う。

 さて、あいさつをすることは、人間社会における道徳観の根幹だといわれている。そうだとすれば、直截(ちょくせつ)的に道徳イコールあいさつといえる。
 さきの、人間関係のよくない職場には退職者が多いとする現象もあいさつがなかったのでないか。
 人間関係の良否は、心と心の交流の良否と同じであろう。
 職場というところは、サラリーマン一人一人の集団の場である。人間一人が社会のまっただ中で、一人で生活することは到底不可能である。相互に助け合いながら、意志の疎通をはかり働き、語らい、喜び、遊び、時には寝食をともにするとき、おのずから人間味(人間関係)が、ほのぼのと湧き出て来るもののようである。
 仲のよくない者同志は仕事のことですら言葉をかわさない。言葉を交わすのがわずらわしいのである。
「今さら近づかなくとも・・・・・」
 と触らぬ神でいる人もいるし、
 「ムシが好かぬから話をしない」
 と割り切る人もいる。
 なるほど、世の中には八方美人的な人は案外少ない0人それぞれ、顔が違うように、性格もまた違う。
 といって、ムシの好かない程度ならまだ救いがある。救いとはふれあいの脈が残っているということである。
 つまり、どちらかから声をかけると、友情の扉がたちまちにして開かれる可能性がありそうに思うがその話しかける勇気が決め手になりそうだ。
 言うまでもなく、人間は感情によっていろんな局面を作る。気嫌がよければよいで、ムードもよくなる。逆にムードが悪いと立ち振る舞いもあやしくなる。
 すると、職場の人間づくりは、職場のムードづくりから掘り起こさなければならないことになる。
 むろん、ムードのよい職場は居心地もよい。ふれあいもよいはずだ。あいさつもスムーズに出るであろう。
 では、ムードづくりはだれがやるべきか。できれば職場ごとの上役がやるのが手っとりばやい。
 ムードづくりのうまい(ユーモアのある)上役がおれば得たり賢したが、コチコチのきまじめ一点張りの上役だと、職場の中はギクシャクしてムードづくりどころではなくなる。
 ところで、一般に女子職員は扱いにくいとされている。ある社長は、
 「女性は物事をカラッと割り切る心がないので・・・・・」  と顔をしかめる。
 だから、女性の多い職場の上役は、もっぱら一視同仁の構えでことに臨まねばいけないという。
 職場づくりは健康づくりと同じで、一朝一夕にできるものではない。毎日の努力の積み重ねによるところが大きいのでないかと思う。
 だとすると「おはようございます」「ありがとうございます」などの日常茶飯事に使う言葉がさりげなく出て来るようにすることこそ、人間関係を良くする試金石になりそうだ。

 へなちょこカメラ人生

 私がカメラとかかわりあいをもつようになったのは戦時中である。
 それから、延々五十年になるが、戦時中と戦後十五年間は、碑肉(ひにく)の嘆にかられながら実際にカメラをいじくったのは約二十年ほどである。
 戦時中にはスプリング・カメラといって蛇腹式のものがあった。
 それは写真機のレンズと暗箱をつないだようなチャチなもので、おまけにレンズの研磨はいたってお粗末。
 安物カメラを買うと像が歪(ゆが)んだり、より短足になったり、まともな被写体でもへなちょこ写真になってしまう。
 無論、今のように、被写体にカメラを向けたら写るAFシステムはなく、レンズシャッターの距離計もついていないシロモノだから、一から十まで撮影者がデータを考え、あれでもない、これでもないと自問自答しながら写すので、それだけに失敗作も多かった。
 距離計がついたスプリング・カメラは、戦後セミ・パールやマミヤシックスなどがあり、当時としては比較的レベルの高いカメラであった。だから、当時報道関係者がよく使っていた。
 このカメラは、今でも、コレクターの間では、名器として高値をふんでいるそうである。

 私がやっとこさ買ったのが昭和十八年ごろ、中国の東北部(旧満州)第十一師団司令部にいたころ、友人のすすめで安物のカメラを買った。
 師団本部には、参謀長だの、作戦参謀、高級副官だの、兵器部長だの、佐官級がウヨウヨしていた。
 しかも戦時下だから、私などペェペェ判任官がカメラを持ってウロキョロしていると、お目玉をくうのはわかり切っている。
 さりとて、兵要地誌といって地形を調査したり、測量したりする場合は、カメラを使わねばならない。
 だから、作戦のためなら大手を振って撮影ができたことをよいことにして、わざと「作戦中」の腕章をつけ、中佐殿の目をごまかし、パチリパチリやっていた。
 あるとき、あやしげな私のへっぴり腰が後方参謀の目にとまり、
「何の目的があって写真機(当時はカメラと呼ぶのはご法度)を持ち歩いているのだ」
 こう言うのである。まわりくどい言い方だ。
 背からの呼びかけに私はびっくりしたが、すかさず、
「中佐殿のお顔を撮るためです」
 とウソ八百を並べると、
「そうか、気がきいとるのお。ではワシを撮ってもらうとするか。男前に撮ってくれよ」
 熊のようなヒゲ面をした中佐殿は、刀をはずしポーズを構えた。少しネコ背で、ヒゲ面のアゴをつき出し泰然としている。
「この動物的姿を男前にとってくれ、とはね。ウフフ」
 そう思うと笑いがこみ上げ、カメラを持つ手が笑い出す。
 写真ができてきた。
 例によって顔が波うっている。
 熊が顔面神経痛になったようだ。
 こうまで歪みがきついとは想像もつかなかった。
「これはまずいことになった」
 と思ったがあとの祭り。カメラも悪いが被写体もよろしくない。
「ワシの顔も、満州の奥にいたら熊に似てきたわい」
 中佐殿は歪みに気づかずこう卑下した。胸を撫で下ろしたのは当方である。

 カメラに趣味を持つ人を大別すると、次の色分けになろうか。
 その一つは、高級カメラのボディ、レンズをそろえ、時たま秀作をものにする準プロ級。
 その二つは、高級カメラ(新旧)をそろえ、さすり眺める型。講釈は一人前以上。その割に腕はさえない。
 その三つは、コンパクトカメラ族。データは無頓着。いわゆる婦人、女子高生組で機械に弱い層。
 その四つは、高級カメラを持って腕を撫(ぷ)し、よく撮るが凡作が多い。たまにコンテストに入選するも、これはまぐれ。
 その五つは、一社のカメラを遵守する純血主義者。いつもカメラを持ち歩き、決定的瞬間をものにしようとする努力型。応募狂。カメラアイはまあまあ。
 その六つは、カメラとレンズは一応そろっているが、撮影するでなく、といって時折、近所の花などを接写する。いわゆる消極派、鈍足型。
 そこで、カメラ愛好者に、
「あなたはどの型?」
 と問えば、たいていは、
「ハハ、この型だな」
 と内心どれかを当て、照れて答えようとしない。
 それはさておき、趣味にはそれぞれよい意味の派閥、ジャンルみたいなものがある。そのまた下に分派があってややこしい。
 例えば、園芸にも庭木、花木、盆栽、草花、石庭、枯山水・…:と、幅は広く深い。
 書道、華道、絵画、音楽も同じことがいえる。それぞれその道で互いに研蹟を積み、鎬(しのぎ)を削っているようである。
 芸術の奥義は深渕である。

 さて、写真のジャンルもその例外ではない。
 撮影の初歩はポートレート、風景、スナップといわれるが、人によってはそうでないとも言う。
 そのほか、スポーツ、子供、老人、山岳、海、仏像、動物、特殊振影、接写と間口は広い。
 写真愛好者は各部門にあって愛機を駆使し傑作に挑み入賞を夢みるが、その望みが実り入選すると、一段と弾みがつく。
 しかし、なんでもそうだが、応募する場合には選者の好みをつかんでおくのがポイントであると先輩が言う。だのに、つい自我が出てヘンテコリンな作品になり、落選の憂き目をみる。
「○○山のフィッテで三日三晩がんばり、日の出の風景をものにしようとしたが、いいチャンスがなくて、残念だった」
 というプロカメラマンの話もあるほど、自信作はなかなか至難であるという。
 プロでさえそうだから、アマチュアならなおさらである。特に夜間撮影、霧の中でのファンタジーな作品や室内撮影は失敗が多い。
 これでもか、これでもかの試練の繰り返しである。
 およそ百年河清を待つ思いであろう。
 でも、大器晩成という言葉もあり、ウサギとカメとの戒めもあるので、要は努力次第といえる。

 サラリーマンは、いわば宮仕えである。上役、同僚、下役すべて宮仕えだ。
 たまさか、分相応な昇進、意図的な背伸びがあったとすれば、その人は遠からずして挫折するときがくると思わなくてはならない。挫折とはその器ではないということになる。ことによっては思わぬ陥穽(かんせい)が待ち受けていることすらある。
 写真を通じ、そんな分不相応な考えが、ふと頭に浮んで消えた。
 いわば写真は趣味の域を出ないが、宮仕えは勝負である。生やさしい考えではのり切れない。
 といって現代の多様なニーズに応えるサラリーマンの処世方法は、何としても時代に即応するだけの能力を持たなければ、波を乗り切ることはできないと思う。
 逆に、あまりにも偏向した知識や、単細胞的見識では社会が受け入れないこともある。
 新旧写真機にもそれがいえる。
 いずれにしても、その見極めが大切であるように思う。

 大物・太っ腹

 古今洋の東西を問わず、世の中には大人物、大物、太っ腹といった人物がちょくちょくいる。
 昔の大物に、坂本龍馬、西郷隆盛、マルコ・ポーロ、シーザー(カエサル)などがいたが、こういう人びとの中には、後世になってから英雄と仰がれた人が幾人かいるようだ。
 ことに、本人の存命中の功績はさほどでなかっても、何年か経たのちに、歴史小説、伝記や史実を曲げて、かなりオーバーに描写されているものもある。
 これらの人物は、文字どおり太っ腹で、度胸もあり、弱きを助け強きをくじき、権力に阿諛(あゆ)せず、大人物らしく描かれている。
一般に、英雄的描写はとかく読者の胸をとどろかせ、痛快さを増幅させ、興味をそそるように書いている。
 大物、太っ腹あるいは傑人といわれる人物で、織田信長のような一風変わった性格の持主もいた。
一風変わった人の業績は、何のてらいもなく、ことをおっぱじめ、みんなから異端者呼ばわりされても、それが見事に成功した場合は、人びとはそのときこそ彼を英雄とあがめ、時には風雲児とたたえるのである。
 ことに、英雄の行為そのものが正義のためだと、第三者はやんやと騒ぎ立て信奉するようである。
 騒ぎ立てるからそれに正比例してだんだん大人物像に仕立て上げられる−というプロセスをたどるようである。
 英雄とは不思議な存在である。

 これらの豪傑肌に対し、いわゆるアーティストといわれる人やノーベル賞受賞者たちは、秀でた功績があるわりに、英雄や太っ腹といわれるイメージにはほど遠いように思うがどうであろうか。
 ときたまアーティストに埋れた偉人のような人物がいる。
 いうなれば、武将である英雄は動的に見え、アクチプな感じを受けるが、片やアーティストは、静かなる大人物という感じがする。
 いずれも世界的に人口に膾炙(かいしゃ)している人物であるが、こうも名声の度合いが違うのは奇妙な話だ。
 では、大人物、大物、太っ腹といわれる人の中味はどうか。
 外形は打てば響くような人物であり任侠肌のような人であっても、性格が清廉潔白でないと、結局は周囲から次第に疎んぜられることたなる。
 このいい例が赤穂浪士で有名な浅野内匠頭と吉良上野介である。
 吉良は強欲で、へつらい、おもねる者を引き立て、おべっかをしない者はとことん踏みにじるといった、まれにみる性格異常者だったから、当時は多くの者から悪者扱いにされていたという。
″貧欲は必ず身を食う″といわれる、よい見本であろう。
 当節の政界、官界、業界に、こんなタチの人がいないと信じたいがどうか。

 さて、英雄の話が出たので、不本意だが、戦時中の傑人を書いてみたいと思う。
 軍国主義盛んなころ、滅死奉公という言葉がよく使われていた。
 いったん戦地へ赴けば死を恐れてはならぬ、という戒めである。
 無論、戦争は一挙手一投足が死につながっていたこともあって、
「もとより死を覚悟している」
 という合言葉で、万事捨て身の構えであった。
 この捨て身の構えは、かのアドベンチュア精神に超の文字を冠したイチかバチかの、ギリギリの線上にある状態のことである。
 兵士たちはこんな環境下にいたため、生きて帰れない人間魚雷や、戦闘機もろとも敵艦めがけて自爆する勇猛果敢な特攻精神は、むしろ、いさぎよく死地に赴くことが男子の本懐であると誤解されていた。
 人間そんな立場に置かれると、死は冷厳なものとして映り、雑念が払拭されてしまい、死を畏怖する心はさらさら起きなくなってくるもののようである。
 戦時中のこうした国策的滅私奉公の精神が良いか悪いかは別として、だれでも死直前の心境は、いわゆる捨て身、ヤッパチみたいな精神、つまり好むと好まざるにかかわらず、自然にそういった方向に進まざるを得なくなるようである。

 さて、大人物の逆である小人物について考えてみよう。
 小人物の実体はどうか。どんなタイブをいうか。
 言わずもがなかもしれないが、思いつくままに挙げると、こういう人を狭量、細(こまか)い人物、重箱の
隅をつつく(阿波弁では「ほぜくる」)人、けちん坊、小心者、とるに足らん男といった、ちっぽけな人物を総称するようである。
 つまり、吉良上野介みたいな男がこれに当たる。
 話はそれるが、現在の世相をシラケ時代、無気力、無能、無責任などと言って茶化している。
 また、一億総シラケとかで、オールノホホン型だともいう。押しても打ってもお応(こた)え申さぬ、ノレンに腕押し、糠(ヌカ)にクギ、豆腐にかすがいとかの無神経な人が当節多くなっているという。
 こういうタイブに案外小人物が多いと聞くが、とかくこのタイブは自己中心主義に陥りやすく、万事排他的で、短絡的(短慮)であり、いったん事あれば衝動的になってオドオドし、死に直面すると腰をぬかしてしまうそうだ。
 すなわち、外観は虎の威をかりる羊のようであり、芯は小心者で、ちょうど幼児が急にポッと成人したような頼りない人である。
 現在の暴走族にはこんなタイブが多く、いうなれば空(から)元気といったところである。

 ところで、サラリーマンの世界における大物、小物の分布はどうか。
 独断と偏見をお許し願うとすれば、次のような分析になる。
 大物と小物の間に中物といった両者の複合体(中庸)を加えて、試みにそれぞれの職場の人物像を一瞥(いちぺつ)していただくと、おおむねその実像がはっきりすると思う。
 例えば、大物の条件とされる太っ腹は、一部の例外を除いて、概して上役の層に、小物は下役に、両面を兼ねた人でチャンスに恵まれなかった人が中物ゾーンにいるようである。
 といっても、太っ腹オンリーだと上役としての条件は失格で、これに人格、識見、知能が付加しなければ適格ではない。
 太っ腹という意味は、職場ではいわば竹を割ったような準任侠肌らしき人ではなく、とかく下役をかばってくれるようなタイブの人であり、また、下役の意見をくみ上げてくれるような人を指す。
 すなわち、早く言えば信頼感が持てる上役といってよい。
 しかし、ここで考えねばならぬことは、太っ腹タイブのうちには、人格、度量はあっても、識見、知能が今一つといった人がいる。
 こんな場合、下役がある程度カバーするだけの配慮を持ちたいものである。
 上役の必須条件にもう一つ付け加えると、上役は筆を持つ機会が多いので、できればシーザーや上杉謙信のような能筆家でありたいものだと思う。

 ところで、上役の能力を兼ね備えているのに、学閥、門閥、閏閥のため、昇進昇格がはばまれている中物が職場にいるとすれば、その人はまことにお気の毒と申さねばならない。
 そういう人は、結局はチャンスに恵まれなかったと解するよりほかあるまい。
 こうみてくると、世のサラリーマン層のほとんどは、緩衝地帯(セフティー.ソーン)といえる中物域にいるのだが、中物から大物に飛躍するのも、中物や小物あたりで低迷するのも、ありふれた考えだが、要は本人自身の心がけ次第であるといえそうだ。

 名 刺 考

 初対面の人にはよく名刺を出し、また出される。
 幾度か会っている人でも、肩書きが変わったら、「このたび○○をおおせつかりましたのでよろしく」といった調子で、やおら名刺を出すし、これは日本人のしきたりである。
 だが、時折、相手方からうやうやしく名刺を出されるのに、「名刺の持ち合わせがございませんので」なんて失礼千万なこと言わねばならないときがあるが、そんなときに限って、持ち合わせがないのではなく、作っていないのである。
 この無礼な人は実は私のある一時期の失態だが、まあ何というか、私はやたらと名刺を出すことにはいささか抵抗を感じている。
 といっても、営業面にたずさわっておられる方や、会社のトップの方は、何をおいても常に名刺を手離すわけにはいかない。
 このことは営業以前の問題である。ただ、名刺を出すにはタイミングがあって、その時期をはずすとバツが悪く出しそびれたりする。
 だが、無言で頭を下げ、名刺を出せば名刺には万言の価値があるといわれるから、名刺とは得体の知れないしろものである。
 あんな小片に無限の重みがあるからこそ、名刺が重宝がられるゆえんかもしれない。
 逆に名刺を出さないと、「当方から名刺を出しているのに」と名刺を出した人は内心そう思うだろう。
 名刺の利点、価値感はそのほか、日常身辺にいろいろある。

 ところで、ある評論家は「名刺は日本人の権威を主張するものである」と言い切る人がいる。その考えはわからないではないが、いかにも極端で、短絡的であるように思うがどうか。
 ここで名刺の是非をうんぬんするのは偏狭でヘソマガリかもしれないが、名刺をよく出す人の性格はこんなタイブに多い。
 すなわち高踏的であったり、権威をほしいままにする人であったり、虎の威を借りる人であったり、自己主張の強い人であったり、虚勢の人であったりなど、比較的自分を売り込みたい人、下ごころがある人、いばりたがる人であるが、ズバリそういう人でなくとも、その片鱗はあるようだ。
しかし見方によれば名刺も出す人によりけりで、愚懲(いんぎん)で腰の低い人ならかえってスマートで品位を高めてる場合だってある。
 世の中にはこんな人もいる。
 名刺を出したがらない在京のある自由業の知人は、名刺を出したがらない理由を次のように言う。
一、名刺を出しても仕方がないとして頭から黙殺してしまう。
二、肩書きがさびしいから。(つまり自由業だから名前と住所しか書かない)
 この知人はかなり名の知られた人だから「名前を言えばこと足りる」としている。これは、うがった考えかもしれぬ。

 名刺のことを書けば、私は、私にとって、大きな失敗をしたことを思い出す。
 ある日、私はいっペんに数人の方から名刺をいただいた。
 私はすぐさま私の名刺入れに収めた。その翌日、また、私は別人と名刺の交換をした。
 いただいた名刺はその日その日に整理しておけばよいのに、二、三日そのままにしておいたのがいけなかった。つまり、私の名刺入れには七、八人の名刺がごっちゃに入っていた。
 そして二日あまり過ぎたある日、ある人から私は知人のむすこさんの就職を依頼され、その足でA社の専務さんを訪ねた。
 例によって当方から名刺を差し出し専務さんの名刺をいただいた。
 それまではそれでよかったのだが、私自身の名刺を出すところを、雑然としていた名刺入れから、うかつにもよそ様の名刺を出したのである。
 むろん、その後の折衝は専務さんよりよそ様へ連絡がいったわけだが、よそ様こそ迷惑な話で、チンプンカンプンだったそうである。私の顔は丸潰れだった。
 しかし、専務さんは度量の大きい人で、私の失敗を単なるユーモアと解してくれ、その後はことぁるごとに、「あなたの名刺にはボクは面くらったね。でも、なかなかギャグがあっていいじゃないですか」
 いつもこうおっしゃる。
 当方こそ、穴があれば入りたいところだが、そのことがきっかけになり、専務さんとは至極ご親交を願っている。

 ところで、この面妖な名刺のルーツをさぐつてみよう。
 昔、中国では、竹木を削ってこれに姓名をしるしたものを「刺」といったところから、小形(型)の紙に姓名、住所、職業、身分などを印刷し、訪問、面会その他、人に接する場合にこれを用いた、という記録がある。
 そういえば、中国では書きもののことを「竹帛(ちくはく)」といい、紙ができていない当時、竹簡または絹
に書いていたということから、竹帛は書籍のことで、転じて歴史のことをこう呼んだ。有名な言葉に「名を竹帛に垂(た)る」がある。
 竹の字はなかなか意義が深い。
 ちょっと拾うと、竹葦(ちくい)(物が多く集まるさま)、竹印(ちくいん)(印判)、竹縁(ちくえん)(竹で作ったえん)、竹簡(ちくかん)(竹の小札に文字を書きしるしたもの)、竹斎(ちくさい)(仮名草子)、竹紙(ちくし)(若竹のセンイを材料として作った中国産の紙)、竹席(ちくせき)(薄く削りとった竹で編んだむしろ)、竹台(ちくだい)(竹を植えた壇)、竹亭(ちくてい)(庭に竹を植えた亭)、竹馬(ちくば)(幼いときの友)という言葉がある。
 少し面白い言葉に竹葉がある。竹の葉と書くから風流な意味があるのかと思ったら、酒の異称でもあり、弁当の意味もある。
 変わったところでは竹夫人がある。その意味は、夏に涼をとるために抱いて寝る竹籠(だきかご)という意味だそうである。
 竹にまつわる言葉はそのほかずいぶんあるが、つまるところは、竹とか葉とかは、その昔、中国では紙のことを竹で表しており、後世になって紙片、つまり名刺様の紙類に変わったようである。

 名刺の効用にはまだまだある。
 人に名刺を託すと紹介状になるし、裏面にちょっと書けば連絡文書や電話の代わりにもなる。
 映画劇場の経営者が、自分の名刺の肩に「よろしく」と書けば、無料入場券に化けたりする。
 ことによっては借金の借用証にもなろうし、領収証にもなる。
 だが、借用証も領収書もともに正式のものではなく、これは仮ということになろうか。
 名刺のことで解せないのが、告別式に第三者に名刺を託して、自分は告別式に参列したことにすることである。これは忍者まがいの態(てい)だ。
 また、変わったところでは、名刺のうらおもてに肩書きをべったり印刷した、いかにもボリュームのある名刺にお目にかかることがある。
 この種は、さきの自己顕示欲の強い人に多いようで「肩書きがこれだけあるんだぞ」といったあんばいである。
 ともかく名刺はつつましいのがよく、文字の号数もあまり大きいものもいけなく、紙質も厚目のものはいかついようだし、紙の色は薄黄色などのカラーじみたものは派手気味。いうなれば純白が無難である。タテ書きヨコ書きはまあまあといったところ。
 名刺の肩に社標やトレード・マークの入ったのは特に異和感はない。かえって、デザイン、キャラクターから好感ががもてる。l
 ただし、トレード・マークも、あまり仰々しいのはいけない。
 中庸という言葉は、名刺にも脈々と生きているように思う。

 単身赴任

 最近、単身赴任の話がチラホラ聞かれる。
 とはいいながら、単身赴任は今にはじまったことではない。
 サラリーマンに身を置く以上、好むと好まざるにかかわらず、転勤がある。転勤には単身赴任を強いられる場合がある。
 また転勤にもいろいろある。県内もあれば県外もある。僻地(へきち)だろうが都会だろうが、有無を言わずにバッサリやる。される側は寝耳に水でびっくりさせられるが、いきり立ち、難癖をつけると、
「じゃ、辞職するということかね」
 と当局は伝家の宝刀を抜く。
 転勤は泣き泣き行く場合もあれば、喜び勇んで行く場合もある。
 四月や十二月になると、転勤にまつわる悲喜こもごもの転勤風景がそこかしこに展開されるが、単身赴任だと一層深刻になる。
一瞬泣きの転勤でも、常習的単身赴任者は案外ケロッとしていて、単身をよいことにして、心の中では快哉(かいさい)を叫んでいる手合いもいる。
 今でこそ給料は口座振込み制度で、そっくり細君の住所地へ送金されるが、その昔、現金が亭主の手中に一括入っていたころのワル亭主は、好機逸すべからずで、すばやく明細書の書き換えをする。
 かくて、いくばくをピンはねして残りを送金するという、いともありふれた策を常習的に行っていた。
 しかし、こんな旧式な奸計は当節は、たちどころに露見して細君に大目玉をくうのがオチである。
 私は転勤の経験が全くなかったのでしかとわからないが、転勤なれした大ワル亭主が自信ありげに単身赴任の極めつけを、耳うちして、
 「これ秘密だが…・‥・」
 こう言ってわれわれ転勤未経験者を洗脳しようと試みるのである。
 その奥義を発表するのはたやすいが、今後ご家庭に異変を起こすといけないので、ここでは差し控えさせていただく。

 考えるに、単身赴任手当を支給したとしても、税金はスズメの涙くらいと思う。このミクロ的額を課税対象外にするよりも、優遇課税をいじったらどうかと思う。
 しかし、赴任手当を「課税対象外にしたら」というアイディアだけは、増税ばやりの昨今ちょっぴり明るいニュースといえる。
 このほか、単身赴任のことで、
「警察官派出所の警官に限り単身赴任はまかりならぬ」
 といった、きつ−いお達しがあるようだが、この取り扱いについても、賛否両論があるようだ。
 もちろん、意見はさまざまでも、広く意見を聞くことはよいことである。
 まあ、いろいろ事情があろうから、関係者の声を聞いて円満にやってもらいたいと思う。

 さて、話が少し横道にそれたが、サラリーマンの世界における転勤は、単身赴任だろうが、妻帯赴任だろうが、転勤には送別会なるものがつきものである。
 妻帯赴任の送別会の席上、先輩、同僚の裏ばなしやささやきは型どおりで別に変わったところはないが、妻帯者がやむなく単身赴任をする場合は、あれこれ茶化したり、コケにしたりする。
 それだけならよいが、まじめ人間をたぶらかして、あらぬ入れ知恵をする人がいる。
 まことにけしからん話で、留守を守る細君にとっては、悪友の顔が閣魔(えんま)に見えるほど憎いに違いない。
 例えば、夜な夜な悪友が電話で誘惑する。
「○○の誰々さんが君に是非会いたいと言ってるよ。好機逸すべからずだ。肩すかしをすると男がすたれるよ。すぐ○○へ来たまえ」
 悪友はウソ八百を並べ立て、単身赴任氏を強引にひきずり出す。
 単身赴任氏は、新任の地だから人脈と地理にうとい。前後左右、買い出しの店、夜の歓楽街などへのコースは先輩、同僚の話を聞かないとよくわからない。
 そういった単身赴任氏のウイークポイントを衝く悪友たちは、言葉巧みにおびき出し、まず先輩の行きつけで一回戦を演じ、すっかり単身赴任氏を酔わせておいてから、やおらあやしげなところへ追い込む。
 悪友の誘いにまんまと乗せられた単身赴任氏は、長い間一人身をかこっていたことで、やむなく奇妙な洗礼を受けることになる。
 また、人間の心理とは妙なもので、義理と人情がからんで来ると、無意識のうちに先輩諸兄のなじみのところへ足が向いてしまう。
 その様子を見てとった悪友は、
「思うツポだわい」
 としたり顔で、さながら妖怪のようにニタリと笑う。いうなれば″悪友の目くばりウソがウソをうみ” だ。

 単身赴任者の暮しは、ややもすると転勤をきっかけに、ひとしお哀れさを増す。
 自炊、せんたく、掃除整頓、近所のおつきあい、買物など、みんな自分でやらねばならない。
 世帯なれした手まめな人だと、単身赴任はあまり苦にならないが、平素家事一切無頓着、無関心、無意識な御仁には、万年床よろしく、″片隅へ朝寝のダンナ掃き残し″を地で行くことになる。この風景、男世帯の恥部を見るようだ。

 ところで単身赴任の生活が几帳面であるか、ヨゴレであるかは別として、転勤を余儀なくされるサラリーマンは、年がら年中狙上(そじょう)に置かれているようなものである。
 いわゆるあなたまかせである。
 この運命的なものを、一般に宮仕えと呼んでいる。
 では、宮仕えとは何か。
 この言葉はもともと古語から出ている。
 つまり、奉公させる、召使う、宮中に仕える、主家に仕える、仕官など、とりどりの意味があるようだが、当節では、このルーツから宮仕えをサラリーマンの代名詞のように使っている。
 考えてみれば、サラリーマンは浮草のようで、哀れの一語に尽きる。
 さて、その転勤だが、なぜ転勤させるのだろうかと単純に思う人がいるかもしれない。
転勤をすると、会社は赴任旅費を出さねばならぬ。サラリーマン自身の生活にも不便、不都合が生ずる。そういう短絡的なことを考えがちだが、そのほか転勤には底知れぬものがひそんでいる。
 すなわち、一定のポストにとどまることは、いわば退歩と同じで、たいていの場合前進はなく、本人にとっても昇格、昇任の機会を失うことになりかねない。
 すると、仕事に対してのハリ、充実感といった魅力的なものが喪失してしまう。したがって働く意欲を旺盛にするためには、適宜適切な転勤を行わねばならない。
 だから、人事担当者は、本人のためを思い、泣いて馬謖(ばしょく)をきる場合だってある。
 転勤には、海外や僻地への転勤(派遣)もあろうが、多くは普通三年に一回である。
 たまさか、他の転勤のあおりをくって、二年に一回の変則的なものもある。
 かくのとおり、転勤は一定のパターンがあるとはいえ、人事は秘密のうちにとり行われる。
 だからといっていうのではないが、一般に人事には弁明の余地はない。すなわち、人事を行う人は裁判官と同じで、釈明する必要は全くないのである。それだけに、人事は重要で、裁量の領域が広いということになる。
 ともかく「単身赴任者よ、邪念を捨ててがんばってください」と、ささやかな声援をおくるしか術はない。

 ストレスの追放

 近ごろは生活が豊かになり、その影響のためか、街を行く人びとは、どことなくおおように見える。顔がおおようなら、からだつきも太っていて、悠々迫らずのタイブの人が多い。
 だが、この太っちょさんも、一部の人は見かけ倒しで、
「このところ糖尿のケがあって、どうも調子がいまいちでね」
 こうおっしゃる。
 すると当方商売がら、
「運動が不足しているのでないかなあ」
 なんて思う。
 たらふく食べてゴロ寝する−、こんな毎日だと、だれでも糖尿だの、心臓だの、血圧だのがあやしくなるのは当たり前。たとえ高血圧は体質だとしても、それ以外の人でも副次的に後天性の病気にかかるのはよくあることだ。
 好きなものをどんどん食ってカロリーが過剰になると肥満し、肥満は成人病につながることは、もはや常識になっている。
 この状態を飽食時代とか半健康時代という人がいる。
 日本は飽食なのに、世界の一部では食うや食わずの貧民生活を余儀なくされている人びとがいることを考えれば、のうのうと飽食していられない気がしてならない。

 飽食は退屈にも関係する。一億総退屈時代といわれるほど、今や日本国民は退屈しきっていて、自分の進むべき方向さえ見失っている感じがする。
 いつぞや新聞に、
「暇をもて余して毎日がむなしい」という記事が載っていた。
 投書子は二十二歳の人妻である。短大を出て就職、二年近く勤めて職場結婚。そして退社。四LDKで昼間はひとりぽっち。三カ月あまり退屈の連続である。夕方近くになると不安がつのり怖くなる。バス停で主人の帰りを待つ単調な毎日をどうすればよいか。
 この間いに対し回答者(女性) は、
一、主婦業をやめて外で働け。
二、子供を生んで育児に専念せよ。
 の二者択一としている。
 投書子の生活は、現代の人妻の姿を象徴しているかのように思った。
 その日その日の生活が退屈だと人生が無為になり、健康な人でも病気にならざるを得ない。
 投書子はそこらを心配しているのかもしれない。
 退屈が続くとストレスが胃かいようを起こし、万一高血圧、心臓病などがあると、ますます増悪するであろうし、それよりか、毎日を悶悶(もんもん)のうちにおくらねばならない。この状態だと精神衛生上からみて最悪の状態だ。
 最近のストレスの及ぼす影響については、精神科医ならずとも大いに憂慮せざるを得ない。
 内臓の病気のほとんどはストレスから来ると言い切る医師もいるほどだから、ストレスこそ人間の天敵であり、デビル(DEVIL)だといえそうである。

 例えば頭痛にも心因性の頭痛、頭重があるという。心のひずみが原因としか考えようのないものは心因性と名づけられている。
 神経性○○とカルテに書いている内臓疾患も、そのプロセスは、ほとんど心のモヤモヤが前駆症状になっているものが多いという。
 といって、心の病気はおいそれとは治りにくい。
 人間はだれでも日常一過性に不健康な心の状態に陥ることがある。
 そもそも人間存在のありかた、性格的個性などというものは無限に多様性があって、心の能力も非常に多面性をもっている。だから、健康であるか、不健康であるかは簡単に判定しにくい。
 心の病気で、急激に発展するものはすぐわかるが、モヤモヤや性格の異常(軽度のもの)はなかなか判定しにくいという。
 すなわち急激に発病する病気は精神分裂病、心因反応での興奮、うつ病などはわれわれでも判別がつくが、神経症、ノイローゼ、自律神経失調症、不定愁訴症候群などは専門医師の手にゆだねねばならない。
 退屈が退屈を生むような生活をしいられる人生は、心の柔軟性に乏しいようで、適宜適切な切り換えにも不調を来たし、人間関係もまずいというのが定説であるようだ。
 だから、そんな人はとかく自己中心的になりやすく、次第に人づきあいが損われる場合が多い。
 職場において友人の少ない人は、あるいはそこらに原因しているフシが考えられそうだ。
 人間関係をうまく処置するためには、その基礎になるものは、何といっても心のあり方であると、つくづく思う。

 では、つとめて心の病気にかからぬようにするにはどうすればよいか。それは初歩的ではあるが、心を解放することに尽きる。
 心を解放するためには″趣味に生きる″のが手っとり早い。
 心を打ち込める趣味のある人はいいが、何もない人は、どんなことでもよい、建設的なものや家庭的なものであればとことん打ち込むことをおすすめしたい。そして退屈を打ちのめすのが先決だ。
 自分自身が満身こめて趣味に徹底すると、心の病気はいつのまにか消えてしまう。
 昨今、各地に健康づくり、生きがい教室を軸にして、県下各地で、地域住民を対象に、いろんな講座を行っている。
 なかでもエアロビックは非常に好評だそうである。
 その理由は、女性は美容と減量を気にする人が多いことで、健康づくりを兼ねたジャズダンス、三Bダンス、社交ダンス、ヨーガ、エアロビックなどを好むようである。
 それにしても、年齢を忘れて、ただひたすら、健康を目指して蝶のように舞うダンスは、さぞかし、ストレスを追っ払うに違いない。
「中年婦人、ここに健在なり」
 という気迫が脈々と胸を打つ。
 係員の話によると、中年婦人の皆さんは、ジャズダンスの申込みに際し、少々はじらいを見せていたが、二、三日練習すると「案ずるより産むがやすし」という安心感と「私でもやれるんだ」という自信。そして「健康づくりにはこれが一番、ストレスなんぞ吹っ飛ばせ」という優越感を満面にみなぎらせているという。
 「なるほど、われわれ男性の傍観者から眺めても、女性の美容と減量とスリムにはこれが最適」と思う。
 「一石二鳥どころか、三鳥も四鳥にもなる」
 係員は自信満々、一瀉千里にこう自画自賛する。
 動物とは動くものと書く。常に動いていないと動物でないという逆説も成り立つ。
 同じ論理に「動かぬ水は腐る」という戒めもある。
 動きはストレスを予防し、ストレスを無くすることは笑いを作ることになる。

 「ならびに」

 ちょっとかしこまった席の祝詞やあいさつで、
 「このたび○○さんならびに○○さんのご協力をいただき・・・・・」
 といった紋切り言葉を聞かされることがある。
 また、結婚式で「○○家ならぴに○○家」というふうに固有名詞と固有名詞を連ねる場合に「ならぴに」の接続語が一般によく使われている。
 もとより祝詞を述べる人は「ならびに」は無意識のうちに言うのであろうが、同じ接続詞の「…と」「…および」よりか「ならびに」が語調がよいこともあって、自然にカが入るようである。
 もう少し推理を働かすと、議員タイブの人や、自己主張の強い人は、ある程度語呂を強くし、眼をむいて胸を張り、ひと呼吸をおいて「ならびに」と力む。
 だから、「ならびに」という言葉は「いばる言葉」「胸を張る言葉」と、私なりにそう解釈しているのである。

 さて、この「ならびに」の文意から考えると、この言葉はさきの「と」または「および」と同じように、いずれも併合的接続詞で、同義語であることは申すまでもない。
 しかし、類型的基礎的な法律用語には、これらの併合的接続詞のほかに「または」、「もしくは」という選択接続詞もあるが、これらの接続詞は、総じて文章の並列的な場合によく使われている。
 例えば「併合的接続詞」の場合には「AとB」「A、BおよびC」、「AおよびBならびにC」などと使い、一般に小さいものを「、」、「と」、「および」とし、大きいものを「ならびに」で結ぶことで、これらを「小ならび」または「大ならび」と呼んでいる。
 また、これに対し、後者の「選択的接続詞」の場合は「AまたはB」、「A、B、CまたはD」、「AもしくはBまたはC」というように使われ、これもさきの並列の考えと同じく「小もん」、「大もん」と呼んでいる。
 やや理屈めいて恐縮だが、われわれが常になにげなく使う言葉の中にも、いろんな建て前みたいなものがあるが、案外意識せずに使っているようだ。
 かくて、結婚式のスピーチに水をさすようで心がひけるが「○○さんならびに○○さん」と言う場合の「ならびに」(接続詞)は、法律的な書き方(言い方)からすれば間違っているのでないかと思う。
 この論法からすると、日本国憲法第七条第一項第五号の「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」のくだりは、アメリカさんの言葉を直訳したものだから仕方ないにしても、この文章も正しいとはいえない。
 この直訳がそのまま日本国憲法として定められた以上、今さらいかんともしがたいが、気にすればするほど気になる。これはしがない法律いじりの宿命だろうか。
 つまり一つのセンテンスに「および」をいくつも使うのは、奇妙だが、これはまあまあとしても 「ならびに」のうしろに「および」があったりするのも奇妙な話だ。
 憲法でさえ、こんな誤った用語を使っているのだから、祝詞での言葉にケチをつけることこそおかしいと言われそうだが、まあしかし、こんな他愛ない話は、夕げの座興にしていただければと思 う。
 これらの間違いは、明治、大正、昭和初期に制定された法律にはよく見かけるようである。
 とはいっても「若しくは…または…または」という書き方は比較的間違いではないのだが「または…または…」と「また」が二つ三つ重なるのはどうかと思う。
 同じ文字を再三重ねないのが全体的にスタイルはよい。

 プライベート症候群

 まことに淫靡(いんぴ)な話で恐れ入るが、今回はトイレと泌尿器科のことを書いてみようと思う。
 トイレという個室は、人間にとってはプライベートな排泄処理をするところなので、下品だとみくびるなかれである。
 家を新築する際、トイレをどこへもってゆくか、どんなタイブがよいか、どうすれば便利か、などが、新築する人の悩みになっているという。
 近ごろのトイレは、様式風(ふろと同室)にしているところをチラホラ見かけるが、二階三階の建物は、ほとんど各階にトイレをしつらえているようだ。

トイレといえば小用の病気が頭に浮ぶ。
 小用の病気はもちろん泌尿器科に属するが、一部内科の領域に関係する病気もある。
 まず思い出すのが男性なら前立腺肥大症または前立腺炎がある。
 男性の小用が出にくくなったら、
「そろそろ老化現象がやってきたぞ」 のシグナルだ。
 女性には (男性にもあるが)腰胱炎がある。
 いずれも排尿痛の重い感じ、頻尿、残尿のたぐいだが、そのほか、試験前の学生が緊張して、突然,、頻尿現象が発症する神経性頻尿もある。
 まだある。
 俳優たちは、本番前は非常に緊張するようで、
「ちょっとトイレヘ」
 とさもことなげに、用足しに行くという。
 また、結婚式前の花嫁さんが、助手?をつけて用足しするこっけいな図を思うにつけ、これとて人ごとと笑ってはいけない。

 かくて、男性のヘンな因果を書き連ねると女性は決まって、
「男って厄介なのね」
 と、同情とも、ひやかしともつかぬ顔をし、肩をすくめて笑う。クスツと笑う女性にもなきどころがないではない。
 それは膀胱炎をはじめとする細菌の跳梁(ちょうりょう)(かゆみ)である。
 細菌の病気は季節に関係ない。
 ノースリップで、心も服装も軽く街をさっそうと歩く娘さんたちの何パーセントかは、目下細菌ととっ組み中かもしれない。
 勝胱炎の原因は申すまでもなく、大腸菌が体の局部にいて、尿道口から膀胱に入り、炎症(排尿痛、頻尿) などを起こす。
 だから、待合室で退屈まぎれに、それとなく、
「何のご病気でおかかりですか」
 と隣の患者さんに聞く。
 すると、たいていは、よどみなく、これこれしかじかと答えてくれる。
 さっきまで病気が自分の背に重くのしかかっていたものが、すっかり払拭(ふっしき)されたようになり、気
も心も軽くなる。
 主治医に尋ねにくいことまで気易く聞くこともできる。
病気が病気だけに、いつもなら口に出すのをはばかるのに、待合室では同病あい哀れむで、なんでもポンポン出る。
前立腺肥大症だろうが、女性の膀胱灸だろうが、世の多くの人びとは、人に言えない病気のためにいろんな苦労をしいられているようである。

 退屈時代

 世の中が豊かになり、経済が落着いてくると、なんとなくゆったりするが、反面、動作がにぶくなり、悠長になってくるように思う。
 貧乏時代は、毎日が生活の戦争みたいなものだから、朝起きて、
「今日はこれこれして稼がねばならない」
 といった一種の使命感みたいなものがつきまとっていた。
一家の柱になる人は、年がら年中チョコマカチョコマカ働き、結果的にはひと握りの賃金しかもらえなかった時代が過去にあった。
 しかも、子供が一人か二人ならいざしらず、三人、四人もいたら、それはそれは生きるのに精いっぱいである。
 それでも、家族が健康でいてくれれば気もやわらぐが、家族の中に、一人でも病人がいると家の中が滅入ってしまい、心が暗転して生きる望みも失われがち。
 貧乏時代のことを「追われるような生活」と言うが、まさに私たちが子供のころ教わった「カチカチ山」 に出てくる火を背負った人のように、背中に火がついてどうしようもない焦りを思い起こさせる。
 貧乏時代とはそんなせっぱつまった生活をいうのであって、ゆったりした時間などは全くないのが実態であった。
 今でこそ爛熱時代だの、飽食時代だの、昭和元禄だのと言って、よき時代(豊かな時代)に鼓腹しているが、
 「これでいいのだろうか。うつつをぬかしていていいのだろうか」
 という反省をする人が現在何パーセントいるだろうか。
 ごく少ないのであるまいか。

 このごろを「退屈時代」という人がいる。
 その現れとして、あまり働かなくなった。少し働いて賃金を多く得る方法を考えよう…という、勤労意欲をそぐような思想が、ここ数年前から頭をもたげてきた。
 この風潮がまことしやかに流布されていて、その結果として休日が多くなってきた。
「よく働きよく働け」といった古い思想は、今では過去のものになり、反古(ほご)のようになってしまった感じさえする。
 役職員のみを多くすることは民主的な感じを受けるが、実質的には実力が低下することにもつながることになる。中味のない虚構システムのそしりさえ受ける。
 そういえば、どこの職場も肩書きラッシュである。
 職員の九〇パーセント近くが何らかの肩書きをつけている職場がある。
肩書きがつけばそれなりの給与が上がる。給与アップの一つの手段かもしれないが、いじわるな見方をすれば肩書きは一つの勲章に過ぎないし、別の見方をすれば一つのネーミングに過ぎないと思う。
 こう書いてくると、いかにも保守的な思想にとられそうだが、昔の姿を美化しているのではない。
 頭でっかちの、一人歩きができないような偏重な人物ができはしないかと憂えるものである。
 ともかく、肩書きラッシュは、うわべは勤労意欲をそそるように思われるが、肩書きの安売りのような気がして仕方ない。これでは価値感がなくなってしまう。

 時代の移り変わりとは、当然のことながら、人心を一変させてしまう。とことん洗脳させてしまうようだ。
 さきに書いた肩書きラッシュも、やがてはそれが当たり前のようになり固定化してしまう時がやってくるにちがいない。
 もうすでに、定着化しているのが現実かもしれない。
一方、目を転ずれば、われわれの職場は非常に民主化されてきたように思う。
 この変革はよいことだと思う。
 昔なら、日本は全体主義、官僚主義、国家主義などといって、中央集権的な思想が横溢していた。
 仕事のことや仕事以外のことでも、一切、実権を握っている人が左右していた時代があった。
 よきにつれ、悪しきにつれ、実権者の力のままになっていたのだ。
 かつての軍国主義がそれであった。戦後次第にその思想は薄れ、今では180度転換した形になり、民主主義が実現したのだ。
 民主主義のよさが見直されて、働きよい職場が甦えった。
 よき民主主義のルールが徹底してきたように思う。

 しかしその反面、道徳のすたれがはびこるようになってきたという声も聞く。
 道徳といえば、
「道徳は全体主義や古い思想につながる」として一部の方におしかりを受けそうだが、道徳とは根っからの古い思想ではなく、現代的な生活の道しるべ程度ならよいと思う。
 職場の道しるべの中で特に大切なものの一つとして、私はひそかに次のようなことを指針にしているのである。
一、心からあいさつをする。
 このことは、職場の人間関係をよくする意味からもっとも大切だろうと思っている。あいさつをしたことによってみんなが一日の仕事が楽しくできることにもなる。
 上役、目上の人に対するあいさつ、同僚とのあいさつなど、あいさつの仕方はいろいろあろうが、適宜適切なあいさつこそ、処世の単純にして重厚な道しるべといえよう。
二、約束ごとを守る。
 これも人間生活のルールを維持するうえで大切なことだと思っている。
 逆に、約束を守らない人は信用を失墜してしまいかねない。
 恋人のデート時間、会議の開始時間、人との待ち合わせ時間、金銭の貸借など、日常職場や仕事以外のことで、約束ごとは枚挙にいとまがない。
 約束ごとを守る人には、私は満腔の信頼を寄せている。
 商取引きをする方々にとっては、もっとも大切なことでないかと思う。

 貧乏時代、退屈時代があらぬ方向へ飛び火したので、筆をもとへもどすことにする。
 昔の言葉に「小人閑居すれば不善を為す」という戒めがある。
 この言葉は当を得たものと思っている。当を得るという意味は、あくまで小人であって大人ではないことをお断りしておきたいが、あまり退屈し過ぎると、よいことは考えない−とするのが普通一般の見方である。
 お金とヒマがある−という生活は、よほどしっかりした人でない限り、よいことは考えないものである。
 「悪銭身につかず」ではないが、泡銭は、ともすれば身につき難いのが世の常である。
 閑居と退屈は語義から見ると、これはイコ−ルとはいえない。
 すなわち、閑居は唯物的で、退屈は唯心的色彩が強く、いうなれば前者は物理的で、後者は精神
的な感覚がする。
 しかし、そうはいっても結果は鶏か卵かの相違で、ヒマだから退屈するのであり、退屈だからヒマになるのである。
 世の中がいくら退屈していても、
「退屈だなあ」
 とこぼすのは、メンタルな立場から考えるとあまりかんばしくないと思う。
 退屈を克服するために、なにがしの心の分散をはかることが心の健康といえそうである。
「心が病む」ことは休も病むことにつながる。
 卑近な例だが、趣味を持つのもよい。レジャーに心酔するのもよい。よい友人を作るのもよい。家族全員でキャンピングするのも結構。
 結局は健康づくりを兼ねたレジャーをして、退屈を退治するだけの余裕と強い意志を持つことだろうと思う。

 へそくり談義

 へそくりという言葉にはヘンな含みがある。
 どことなくユーモアがあり、へそと聞いただけでも笑いをそそる。
 だから雑文を書くに当たっては、いつもへそくりがテーマになることがある。
 そういうことで、このたび再度本欄にへそくり氏を登場してもらい、別な視点からかい間見ようと思う。
 さて、ある亭主は、
「これっぽちの給料からへそくったって、たかがしれている。へそくりと名のつくものではないよ」
 と事実を糊塗(こと)しながらも、一方かしこい女房はがっぽり蓄えていることを、世の亭主たちはご存知ないのであるまいか。
 ご存知なくとも、たいていの、おおらかな亭主は、
「いじらしいじゃないか」
 憐憫(れんぴん)の情で「ははは」と笑い、あとはほくそえんでいる。
 ははは……と笑うだけの価値だけあって、へそくりの語呂もまた愛矯の響きがある。
 では、へそくりとは何か。
 本質的なところはわかるが、ついでながら、国語辞典で調べると、
「臍繰金、主婦などが倹約して、ないしょでたくわえる金」 とある。
 これでは少しまどろこいので、新村出編「広辞苑」第三版から引用すると、
「綜麻繰・臍繰」綜麻を繰ってためた金銭の意。主婦などが倹約して内緒でためた金。ほぞくりがね。好色万金丹「狸狸の……」などなど書いてある。
 これからすると、へそくりは女房専有で、へそくりの語調がまたふるっている。へそをくるとはこれいかにである。
 へそとは臍と書き、腹部のまん中の小さなへこみを指している。このへそをくるだけで、小脇をくすぐるようだ。
 へそではないが、へそに似たような言葉に「子供の泣き顔」のことを「「べそをかく」といい「気だてのよくないこと」を「へそぐろ」という。
「おかしくてたまらない」ことを「へそで茶を沸かす」といい、「性質がひねくれていて素直でない」ことを「へそまがり」という。
 こうみてくると、へそとは笑いがにじんでいるようであり、また冷厳な警句になぞらえるものもある。
 思えば、あのちっぽけなしろものが「諸行無常、笑う門に福来たる。笑うて損した者はない。笑う顔に矢がたたず。ああ、笑って暮すも一生、泣いて暮すも一生。それじゃへそで茶を沸かそうぞ ‥」
 なんていうへその歌がへそで茶をわかしそう。

 俗にへそくりが女房の特権のようにいわれているが、当節亭主だって大いにへそくっているらし。
  目下へそくり実行中という知人のA氏は、貯金通帳を二つ持ち、せっせとため込んでいるが、ある日、話のついでに、
 「奥さんもへそくりをやっているのかね」
  と問うたところ、
 「確かにちょこまかやってる。ちょくちょく変わったリングをつけているからそうかもね」
 図星だという顔してこう言う。
 二人そろって、蟻が甘いものにたかるようにへそくると、あとがなくなるのではと思えば、
 「ボクは給料からチヤイしているのではない」
  と得意げに言い、
 「万事、別収入をばっちりね」
  とのたまう。

 「チャイ」とか「ばっちり」などの言葉が出るほどだから、しこたまため込んでいるのは確かであ る。
 別収入はサラリーマンにつきもの。ことに特技を持っている御仁ならてっきり別収入があるはずだ。適当に稼いで、優雅にゴルフをする。また、書物や趣味の品物を買い求め、旅行をし、飲んで気突(おだ)をあげる−。
 別収入は悪銭身につかずとは申さないが、不時の収入はとかく身から離れやすい。
 悪いヤツらは、見越し買いをして、あとでぬきさしならぬようになると厄介だ。

 世の中には亭主の留守中、亭主のポケットからバーなどのマッチ、ハンカチ、ライターなどを見っけ、ことのいきさつを聞き出そうとする癖(へき)のある女房がいる。
 ときたま、ひょっこりへそくりを見つけ、鬼の首でもとったようにきめつける悪妻がいるとか。
 時折、女房は逆に冷静をよそおいながら、そっと、
 「あなた、へそくりいくらあるの」
 「なんだ、突然」
 「現在のへそくりの総額よ」
 「あるわけないだろう」
 「ホステスに貢いでいるから残高なしなんでしょうよ」
 攻め寄られても、とり合わないのが得策とみて、亭主は、
 「バカだなあ」
 そう言い捨て浴室へ飛び込む。
 だが大口のへそくりがバレはしないかと、一瞬たじろぐ。
 それにしても女房の勘の鋭いのには亭主はいつも脱帽されっぱなしという。
 女房が亭主のポケットをまさぐるのは、亭主の浮気を問い詰めるのではなく、実はへそくりのしっ尾をつかもうとする魂胆(はら)である。
 亭主が亭主なら女房も女房だ。
 どういうわけか、熱女になると経験が豊かになり、知恵が回りすぎて謀略的になるようだ。
 亭主はいつも警戒しておかないと、いつ、どこで足をすくわれるかわからない。
 特別収入でへそくる亭主は、男の甲斐性があってのことなのに、なぜ女房の触手が伸びてくるのか。そこらへんのところがA氏は解せないと口ぐせに言う。
 片や女房の言い分は、
 「特別収入はわからないではないが、たまにはおこぼれを女房(私)によこしてもいいのに」
 と、つい欲の皮がつっぱる。
 いかにもみみっちい話だが、チリも積もれば山となるのたとえのとおり、亭主がしこたま蓄えている事実を女房は知ってか知らずか、ことあるごとにせん索しようとする。

 以上はさきのA氏夫婦のへそくりぶりをのぞき見したまでだが、A家はどちらかといえば、ちょつぴり女房上位だというから無理もない。
 だのに、この夫婦へそくりに関しては、夫婦平等の線を保っている。
 もともと夫婦というものは、亭主が働き、その給料を女房に渡して、亭主はいくばくのこづかいをもらうのが平均的な家庭であり、しきたりであろう。
 このA氏は「私は平均的なサラリーマンだから、収入に応じた支出をし、へそくりもその線にそってー」なんて、したり顔で言ったりするのだが−。
 では、逆に「夫婦間の金銭取引きをドンブリ勘定にするとどうなる」と、奇想天外な質問をすると「それもよかろう」と無責任なことを言う。
 ドンブリ勘定とは計画性のない、いわゆる放漫な経理をいう。
 いくら夫婦でも、A夫人のように、暗にへそくりを模索しているとき、それに輪をかけドンブリ勘定がまかり通ると、夫婦の間に金銭的なトラブルが起きかねない。
 ともかく夫婦は、経理をはじめ何事もフェアであらねばならない。
 といって、へそくりまでをあからさまにせよというのではない。
 へそくりはあくまでガラス張りの中の小さな秘密みたいなものでありたいし、さりとてあまり肩入れしたり、さぐりを入れたりするのはどうかと思う。
 どちらかといえばサシミのツマ程度にあしらっておけば万事家内安全ではないかと思うのだがー。

 上質な個性

 友人でも社員でも、夫婦でも、そして上役下役の間でも、個性と個性の結びつきによって人間関係が成り立つように思う。
 個性の類似語であり対語である感性が偶然にフィットする間がらだと、どことなく心の触れ合いが生れ、なんとなく近づきたくなる思いにかられる。
 それが男女関係になると、異性というほのかな魅力が媒体になり急速に発展する場合がある。世の中に親友とか恋人とかいう間がらは、ほとんど個性と個性の結びつきがぴったり合っているように思う。
 こういう発想は、テレビ、ラジオ、新聞、チラシに至るまでのCM、またはCMを企画した人たちと、視聴者の間になんらかの感性が異様にひらめいたとき、CMの効果OKということになろう。
つまり、感性の強弱は、即相手の感性に通ずる(反響) のである。
 世間では、呼吸がぴったり合った者同志の夫婦を似たもの夫婦という。
 夫婦が長い間、同じ屋根の下でいると、性格、意見その他もろもろの仕草までがよく似てくるもののようである。
 夫婦本人同志はさほど気に留めていないだろうが、他から見れば、
 「似たもの夫婦ね。歩き方までそっくりだわ」
 など、よそ様の口の端にのるようになる。
 およそ環境とはおかしなもので、長い長い間に、生活にしみついた垢みたいなものが、周囲のふ
んいきによって、いつの間にやら身についてくる。
 すなわち、夫婦は互いに異った分子であるにもかかわらず、ある触媒が作用することにより、同
位分子に移って行くという理屈は、あながち化学や物理の原理だけにとどまらないようだ。
 ところで、言葉は悪いが、逆に世の中には「ムシの好かないヤツ」といわれる人が知人に一人や二人はいるものだ。
 かりにわれわれサラリーマンやOLの仲間に、そういった性格に合わない異分子がいるとすれば、毎日職場で顔を合わすことさえイヤになる。
 ことに女性は、心がデリケートなだけに、溝が一層深いのであるまいかと思う。
 しかし、職場にいる限り、個人的な心情を振り回すわけにはいかない。我を捨てねばならないときもある。
元来人間は、中枢神経の司令で行動する動物である。だから、イヤなことは無視すればよいではないかと言っても、本人にしてみれば、そうやすやすと相手と妥協するわけにはいかない。
といって、もやもやをそのまま放置しておくと、仕事に差し支えが起きてくる場合もある。そうなったらもはや人事異動をまたねばなるまいが、そこまでいかなくとも職場の摩擦を極力少なくし、人間関係をよくし、職場を明るくするためには、職場の長または上役がひとはだ脱がねばならない。
うわっ面(つら)の性格の不一致程度ならまだしも、根が深いようだとことは面倒である。

 家庭に似たもの夫婦があるなら、サラリーマンの世界にはイエスマンというタイブがある。
 かつてある職場の研修会の席上、人間関係をテーマにディスカッションをしたことがある。
 イエスマンの話がでてから、話が一層弾んだ。
 話が進むにつれ、良きにつけ悪しきにつけ、イエスマンの人間像が浮かんでは消えた。
 よく考えたら、イエスマンという人物はあまり出世型ではないという意見が支配的であった。一般にはイエスマンは個性も感性も薄弱で、自己の主体性もなければ本質的な論理性も持ち合わせていないように思う。
 いうなれば、イエスマンは寄らば大樹の陰といった依存性が強いだけに、独立独歩ができないタチではないかと思う。また、イエスマンは 「ご意見ごもっとも」 の、もみ手のイメージが強いためか、男の風上に置けないタイプ、という強い意見も出た。
 しかしながら、日常会話のなかで「イエス」 と「ノー」と、どちらが響きがよいかといえば、それは「イエス」 である。
 否定よりか肯定がより耳ざわりがよいのは当たり前である。
 かりに「AとBと比べたらAが正論だ」
 という相手の意見に、
「そうだ。そのとおりだ」
 と答えたら相手はわが意を得たりだが、
「君の意見は間違っている。Bだ」
 こう否定すると相手は心おだやかでない。
 否定は反論に通ずるであろうし、さらに反論は没却に通ずることになる。
 ところで、そのイエスマンであるが、サラリーマンが上役の前で、ことごとに、
「ハイ、そのとおりです」
「ご意見ごもっともです」
 を連発すると、なるほど上役は、一時的に、
「彼は礼儀をわきまえている」
 という自己満足的な評価を下すかもしれない。
 だが、それもひとときで、すべてイエスでかたづけていると、
「彼は腹がすわっとらん。調子のいいヤツだ」
 となる。
彼の人物評価はだんだん下降線をたどり、はては、 「相談にならん男だ」
 とみくびってしまう。
 かくて、サラリーマンの「イエスマン」はプラスよりかマイナスの方が多いことになる。
 だから、日常会話におけるイエスとノーの使いわけは、イエスを主体にし、ノーを小出にするのが賢明な方法でないかと思う。

 人間の真の魅力は顔や体の容姿ではない。むしろ、そんな外形的なものよりか、個性の良否である。
 気の合う友と話をしていると、なんとなくほのぼのとした気持になるが、これが魅力というものであろうか。
 個性といっても個性一本槍のものや、アクの強い個性派というような個性に個性がオーバーラップされたようなものは、過ぎたるは及ばざるが如しで、かえって敬遠される。歴史に残るような芸術家の、いかにも個性を超越した至芸または入神の芸といわれるようなシーンをTVで時折見かけるが、こういう場面は、常識的な尺度では量り知れない、超人的な何物かを秘めているように思う。
 さきに書いたように、個性は魅力の代弁者であるという表現は、あながちマトはずれではない。
 だから、ほのぽのとした個性、にじみ出るような個性が、魅力的であるのは、もはや説明を要しない。
 こう書いてくると、ほとんどの人は、自分の個性の正体は、という疑問があろうかと思う。
 ここで修正しておきたいことは、個性は癖(へき)ではないということである。
癖とは慣習で他から忌み嫌うものが多いようだが、平均的な個性はそれよりか、かなり上質なものである。
 芸術的な個性は一般に特技と解してよい。しかもそれは上質な個性の範疇に入る。
 さきに、似たもの夫婦やイエスマンを引用して個性の片鱗をひとりよがりに考えてみたが、多くの個性の中にあって上質の個性を求めるのがいかにむつかしいことか、それは人それぞれの命運の
課題というべきでなかろうか。

 男の友情

源氏鶏太氏は、
「親友のない人ほどさみしいものはない」
と氏のエッセイ集に書いてある。
また、別のところに、
「サラリーマンは孤独である」
 とも書いている。
 サラリーマン (OLも) は、ともにさみしく、孤独であるようだ。
 大勢の中でポツンといて、一生のうち親友もなく、趣味もなく、家族運も悪く、加えて職場では出世のチャンスもなかったら、サラリーマンはなんとしても孤独であるかもしれない。
 しかも、みずから友だちを作ろうとしない人、趣味を求めようとしない人は、とかく何をするにも積極性が伴わないようだから、孤独なのも無理はない。
 だから、なにごとも引込み思案であってはいけない。
 こんな調子だから社交性がなく、友人を作るどころか、男女の交際も覚束なく、すべてが孤独に閉ざされることになる。
 これらが積り積ってストレスがたまり、悶悶の日日を送らねばならない素因になる。

 ところで、友だちにはだれしも、友情という心の支え、しがらみといったものがつきまとう。
 男性には男の友情があり、女性には女の友情が自然発生的に芽ばえてくる。
 ただし、どういうわけか、男の友情は長もちするが、女の友情はさほど長続きしないとよくいわれる。
 男の友情が長もちするのに、なぜ女の友情が長続きしないのだろうか。
 例えば、A女とB女は平均的な庶民の奥さん同志で、互いに家ごとの交際をしていたとする。
 AさんはBさん宅で長居をすると夕食を食べさせてもらったり、ことによっては泊めてもらうほどの仲よしである。
 そんな仲なのに、ある日ひょんな言葉のゆき違いから親友のきずながぷっつり切れてしまった。
 電話はもちろん、顔と顔をあわすことすら避けるようになってしまったという。
 その原因をさぐると、ささいなことながらAさんが約束をたがえたことにより意志の疎通を来たしたという。
 女性にはそんなところがある。
 Bさんは約束を真剣に守り、いたって律儀な性格の持主であるのに、Aさんはその逆で、いわばちゃらんぽらんのタチである。
親友の仲が不調になるまでは、Bさんは極力Aさんの約束不履行をカバーしてきたはずなのに、それも辛抱の限界を超え憎悪さえ覚えるようになったらしい。
 いわゆる愛想がつきはてたのである。

 男の友情はそんな生やさしいものでない。
 かりにA男さんの親友であるB男さんが逆境に立ったとする。
 そんなときAさんは、俄然友人の苦境を救おうと決心する。
 ことによっては寝食を忘れて東奔西走し、ありとあらゆる犠牲を覚悟で努力する。
 AさんとBさんは平素とりたてて友情を示すことはなかったが、いったん「男の出番」と心に決めると火や水をいとわず油然とふるい立つ。
 相談を受けるとかゆいところに手が届くように詰めてくれる。
 友情とは「苦境にあるときこそ友情の真価がよくわかる」といわれるが、友情を受ける側は、奈落のドン底にあればあるほど友情が骨身にしみてありがたいと思う。

 例えが適当でないかもしれないが、一家の健康管理を椎持するためにはホームドクターを決めておくとよいといわれる。また、処世上、親友を持つことは大切であるといわれ 「遠くの親せきより近くの他人」 という言葉さえある。
 いずれにしても「頼りになる人が身辺にいると何事もスムーズにことが運ぶ」という訓(おし)えを示唆しているように思う。
 しかしながら、人間社会においては、親友だから、近所だからといって、むやみやたらにもたれかかっていては、仏の顔も三度になってしまう。
 ものはほどほどにとどめおくのがよい。また例外的なものに、
 「彼とは長い間の付き合いなので、頭のてっペんから足の先まで知り尽くしている。なのに女房をもらってから亭主の性格がまるっきり変わった。男は女房がつくとこうも変わるのかね。彼の女房は何でもかんでも計算づくだから、夫婦間がすっきりいかないのでないか」
 という例外的なケースもある。
 長年培った友情は案外崩れないものだが、人の感情は微妙で、ひょんなときに懐疑が生まれ、疑惑に発展することすらなきにしもあらずである。

 知人とその親友が予期しないアクシデントから、きのうの渕(友)が今日の瀬(敵)になってしまう(世の中は何か常なるあすか川昨日の渕ぞ今日は瀬になる。古今集)ことは悲しいことだが、長い人生には、このような有為転変は数え切れないほどあるものだ。
 この浮沈を古い言葉では塞翁の馬といっているが、鉄壁の如しといわれる男の友情にも、ささいなことが原因になり、なだれ現象が起きることがある。
 男性にとってビジネスはいわば戦場のようなものである。
 職場には七人の敵があるともいわれている。上役、同僚、下役が入りまぜって陰に陽にしのぎを削っていると思えばよい。
 極端に表現すれば、ビジネスでは、いくら友情で堅く結ばれていても、ことが昇進昇格がからんでくると、平素の親友が敵に豹変することさえある。
 そんなときに限って、同じ経歴、同じ条件であっても、皆より一歩先に出たいとする競争心がうごめいてくる。
 つまり一歩先に出ておれば、いずれは上役に認めてもらえるチャンスに巡り合うこともできるだろうし、そうでなくても、まかり間違ってチャンスに出くわすことが無いとは限らない1と、棚ぽた式チャンスを期待して、あわよくばの心を誘う。

 友情だって同じことがいえそうである。
 長い間養って来てやっと実った真の友情もあれば、思いがけない人と意外なときに、趣味や人の紹介などで通じ合った友情もある。
 これもチャンスといえばチャンスかもしれないが、サラリーマンという職業から、短期間のうちに出世が望むべくもないのと同じく、友情にも場当たり的なものは真意が乏しい。
 また、友情にはドライ型とウェット型がある。
 いうなれば男性はドライである場合が多いが、女性は性格からウェットである例がよく見受けられる。
 どの型もそれなりの良いところがある。ドライで処理しなければならないケースもあり、ゆっくり話し合って功を奏する場合もある。一概にどちらがよいかは判断がむつかしい。
一般に友情とは趣味が通じ合うか、性格がよく似かよった人の問に生まれやすいといわれる。
 とはいいながら、いくら気の合う友人でも悪人であっては身のためにならない。むしろ、友人が悪人と知ったらすぐ別れるようにしないと、遠からずして悪に染まり身の破滅を招く。
 はじめに男の友情が長もちすると書いたが、男の友情とは、結局は押しと詰めと持続性が最後にものをいうのでないかと思う。

 フレーミングの感覚

 ふと気がつくと、窓辺に寄りそって、もの思いにふけっていた−。
 これは、日常だれもが経験する所作である。大した意味もなければ目的もなさそうな図式。
 窓辺に寄りそうといった、いたって平凡なシーンでありながら、そこに窓という媒体のあることに気のつく人が幾人いるだろうかと思う。
 窓とは、家屋を建築するに当たり、構造上なくてはならないものの一つになっている。
 窓の持つ利点といえば、家の内と外を仕切るものであり、通風、採光、保温にも役立っている。
 一般に、窓とは、内から外を眺めるためによく利用されていて、ポピュラーながら絵になるが、外から窓を通して内を見ることそのものはアンフェアであるような気がしてならない。
 すなわち、窓は内から外の風景を見てこそ風情があり、しかも自然の美に心打たれ、枯淡の境地にひたることができる。
 そのほか自然の美に触れるには、山や林の中を散歩、逍遥(しょうよう)しながらという方法もあるが、ここでは窓を介しての美を問うことにしたいと思う。

 窓とは、おかしなもので、窓ワクを額プチに見立てたら、いっぷくの絵画を見る思いがする。
 いわゆる窓は、フレーミングの役目を果たしているといってよい。
 写真の好きな方であればすぐおわかりのことと思うが、被写体の構図とフレーミングは相関関係にあるようで、ファインダーをのぞいて瞬間的に構図を決める手法は、写真ではごく普通になっている。
 この動作が早ければ早いほど決定的なチャンスが得られる。
 万一、構図が不満足であれば、適当にトリーミングして、別な構図を作ればよい。
 このように、構図作りをまさぐる楽しさが写真にはあるが、窓だって同じことがいえる。
 ともかく、外景に四季おりおりの樹木や草花、丘、石、山が付加されると、いいしれぬ興趣がわく。
 そこらのところを随筆家、岡部伊都子氏は、窓のもつさび、わびをこよなく愛し、女性特有のロマンに関連づけている作風は秀逸だ。

 窓といえば、まず思い出すのが動く窓、すなわち列車の窓を連想する。
 列車の窓は、家の窓と違って、移り行く風景を眺めることができる。
 いうなれば動く窓、動く額プチといえる。
 リズミカルに動く列車の窓は、静止する窓と違って飽きることがない。むしろ旅情をかきたてる。
 窓が開閉できる列車だと、まず駅弁を買うことができる。
 二、三分の停車時間を気にしながら、そそくさと駅弁を受け取り代金を支払ういそがしさ。
 駅弁にはいろいろある。その土地にふさわしい名物をうまくしつらえ、カラフルに盛り合わせている。
 うなぎめし、わさび漬け、鯖ずし、鯛めし、栗めし、特製幕の内などなどで、車窓から風景を見ながらその土地の香りを味わうのもオツなものである。
 そして、
 駅弁をあけたらおとなり
      目をつむり
 こんな川柳をふと思い出し、笑いをそそる。
 ところで、知人に鈍行の好きな人がいる。
聞けばヒマにまかせて、ひたすら鈍行に身をゆだね、全国各地に旅をしているという。
列車の旅のことなら、何でもござれと自負するだけあって、その土地の名所旧跡にも詳しい。
未知の土地へ旅行するときには、いつも地図がわりにその土地の特色、交通あんないまで、ひととおりのことを勉強しているから、趣味の域を越えている。
 この鈍行氏は、十年がかりで全国踏破をしたいと悲願をかけているそうだ。

 旅のたのしみというのは、見知らぬ土地を尋ねたり、その土地の人びとにハダでじかに触れ合う親しみ、そして名所旧跡の歴史の流れを知ることでないかと思う。
 また、旅をまさぐる楽しみを身につけて、後日反勿する楽しみも格別だ。
 つまり、かって歩いた旅のあとを、もう一回、心の中でなぞってみようとする楽しみも捨てがたい。
 子供たちが絵の上に紙をのせて、下の絵を映し出そうとするうつし絵とよく似ている。
 いわば旅の再演出である。
 演出には一般にクリエーティプなものが伴いがちだが、自然にはそれがない。だから、自然は手を加えないところに価値があるように思われてならない。
 かって訪れたことのある場所に、ビルか何かが建っていると、急に興ざめがして、がっかりさせられたことがある。
 それもそのはず、その土地へ期待をこめて訪れたのに、奇妙なものがオーバーラップされ、原形をとどめないまでの姿になっていると、だれでもその土地の既成のイメージを損ねてしまう。

 それはそれとして、新幹線は窓はあるが、開閉できないことになっている。
 しかもフルスピードだから、あっという間に目的地に着いてしまう。だから旅情を楽しむことは到底おぼつかない。
 窓を境にして、風景を見、あるいは駅弁や買物をするという昔ながらの人間的な往来が新幹線にはない。これでは人と人との触れ合いも望めそうにない。
 窓にたたずんで外の景色を眺めるという単純な所作は、いかにも平凡だが、このさりげないことにも案外意味が含まれていて、ことによっては、この仕草がやがてはシリアスなドラマに展開して行くであろう要素をはらんでいるかもしれない。
 ところで、われわれサラリーマンは、職場に籍を置いている以上、どこのポストヘ行っても、テキパキやりこなすオールマイティな職員であることが望ましいが、人はそれぞれ得手、不得手があって、うまくいかない場合もある。
事務職員なら人一倍やるのだが、得意回りはもう一つという人もいる。その逆もあろう。
 苦手な仕事をしたばかりに、心身症やノイローゼになった人もいる。
 つまりワクに入ってしまった人、鋳型に入ってにっちもさっちもいかなくなった人は別として、よい意味のワク内、仕切り内で威力を発揮できる人は、社にとっては大いにプラスになる。
窓のもつ意義、仕切りの使いわけ、フレーミングの美的感覚、そしてサラリーマンのセクションなど、仕切りがもたらす人間模様は広範にして深遠である。

 ヒゲ談義

 最近、ヒゲをたくわえている人が随分多くなった。
今回はヒゲをテーマにして、思いつくままに書かせていただくことにする。
 ヒゲといえば、われわれ実年組以上の者から見れば、ほのかなユーモアを覚え、もう一歩突っ込んでよくよく見たら、笑止の域を出ないタイブもある。
 はじめに、私の経験的なヒゲの歴史をさぐってみよう。
戦前(昭和二十年以前)の町長さん、校長さん、お医者さん、そして作家の皆さんが、カイゼルヒゲ、といって先がピンと上向きにハネたヒゲ、コールマンヒゲといって、上唇にそってすんなりと生えた美男子タイブのヒゲをたくわえていた人を覚えている。
                 
 いわゆる「美貿(ひぜん)をたくわえる」の「髯(ぜん)」でなく「髭(ぜん)」である。
 ときたま、チョボヒゲといって、チャップリンばりの、あのちっこいヒゲが、キザ人の間に流行していたころもあったが、この型はあまりポピュラーでなかった。
一般に、これらのヒゲ男は、そろって、おおむね中年以上の熱年組の専有物であったようだ。
 そんな風景をわれわれ子供が見るにつけ、ただただヒゲに恐れをなし、近寄りがたい感じさえ受けた記憶がある。
 まあいってみれば、ヒゲはその人の勲章みたいであった。
 ともかく、当時は、ヒゲは偉丈夫な人や位階の高い人たちに限られていたので、それ以外の人は、ヒゲを生やしたくても、踏み切れなかったようである。
 ヒゲを生やせないじれったさはどんな心境だろうかと、今ごろになってふと当時を思い返してみるが、そんなじれったさは、当人だけしか知るよしもなく、第三者はむしろ解しようもなかった。

 では、じれったさをかみ殺していた人は、どういうタイブか。
 例えば落語によく出てくる入さん熊さんはヒゲを生やしていない。電車の運転手さんも。八百屋さん、魚屋さんのおじさんも。呉服屋さんの番頭さんも。恐らくサービス業と名のつく人たちは、ヒゲには無縁であった。
 元来ヒゲは、別な見方をすれば、昔はいばる(胸をはる)道具みたいに思われていたので、ヒゲ男がペコペコしていたのでは、沽券(こけん)にかかわるとされていた。
 かりに呉服屋の番頭さんが、ヒゲを生やし、もみ手よろしく、
「いらっしやいませ」
 では、何としてもさまにならない。むしろヒゲが泣く。
 万一、旅館の番頭さんがヒゲを生やしていると、主人は、
「君、何だ。番頭の分際でヒゲを生やして……」
 としかったのである。
 だのに、大学の教授がヒゲをたくわえていると、
「A教授のヒゲは、ハクがついている。さすがだね」
 とこうである。
 番頭さんと教授のヒゲではかくも差がついていたのである。
 以上のように、昔のヒゲには風格といったものが備わっていた。
 ヒゲを生やすかどうかは、おのずから、その人の身のほどを考えてから決めなければならなかった。それが当節は無造作にヒゲを生やしている。
 特に若者がドジョウヒゲを生やしたり、歌手や音楽家がヒゲモジャだったりすると、どこにご利益があるのかと頭をかしげる。
 昔を知るヒゲの功徳と、現在のヒゲをダブらせたら奇妙な「ヒゲ人間」が現われて、何ともおかしげな実像虚像が浮かびあがる。
 こうみてくると「ヒゲも地に落ちたものだ」と嘆くのは、旧人類の頭のズレといえようか。

 では、こんな風景を仮想してみる。
 ヒゲを生やした若者が飲酒運転をして事故を起こしたとする。
 もちろん警察さたになり、警察署や検察庁からことの次第を調べられ、それ相当の罰を受けることになる。
 ここで思うことがある。
 ヒゲを生やした若者が、ヒゲのない係官から、こっぴどくとっちめられる図を想像したら、何とも漫画風で、格好がつかないような気がする。
 男としてこれほど恥ずかしいことはない。親や恋人には到底見せられない愁嘆場といえる。
 ということは、元来ヒゲを生やした人はしかる側というパターンであるはずなのに、この場合は全く逆現象である。
 だから、チグハグなところが奇妙に映るのである。

 およそ、ヒゲは現代の感覚では、権威や力の象徴ではなくなった。
 むしろ、ヒゲは男のアクセサリーのたぐいになっている。たまさか高校生が遠慮しがちに薄いヒゲをおいているのを見るが、このヒゲ高校生が、運動会の一〇〇メートル競走でドン尻を走ったら、ユーモアを通り越してコツケイに見える。
 また、ある日、ヒゲ生徒が先生と間違えられ、やおら、
「ボク、生徒です」
 と答えたという。
 もう一つ。ヒゲには別の表現がある。それは虚勢である。
 ある若い産婦人科医さんは、ヒゲを生やしていないとキャリアがないということで、こころならずもヒゲをおいているけなげな話を聞いたことがある。
 この場合は虚勢よりも、ヒゲが増収の手段になっていて面白い。
 この先生ならずとも、とかく男性は若いときには年輩に見られたく、年輩者は若く見られたい気持が強い。
                  
 ヒゲが経験の尺度(バロメーター)になるとは、ヒゲの効用も意外といえる。

 ところで、俗にヒゲが似合う顔とそうでない顔がある。
 似合う顔といえば端正な面構えがぴったりである。
 具体的には鼻が高く額も広く、面長な顔にフィットする。
 逆に、ヒゲがさっぱり似合わない顔は小鼻、鼻が天向き、鼻の下が長い、丸顔、額が狭い、ほそ目、背が低い人は、およそヒゲはそぐわないどころか、ヘンテコリンに見える。
 次にヒゲにまつわる笑えぬスナップをご紹介しよう。
 無贅の課長とヒゲの係長がそろって街を歩いている。
 たまたま同じ会社の奥さん連中三人に会う。その一人が、
「あれっ、課長さんだわ」
 と叫んだ。
 課長の顔を知らない他の二人は、キョトンとしているが、急なことで、「○○の家内でございます。いつもお世話になっています」
 と言ってヒゲの係長に三拝九拝している。
 課長は横目でそれを見て、見ぬふりをする。係長はすぐさま、
「課長はこちらです」
と言っても、課長は心おだやかでない。
 ムツとした課長は、いかにもあと味がよろしくない。
 では、もやもやの原因は何か。
 それは係長のヒゲである。
 翌日、係長はやむなく、ヒゲを落したであろうことが想像される。
 ともかく、ヒゲはあくまで自己主張である。
 自己主張するのは自由だが、ヒゲに虎の威をかりたり、虚勢をはる手助けにするようだと、およそ陳腐以外何ものでもない。

 言葉のあや

 最近、ある文芸関係の寄りあいに出席したとき「近ごろの若者の言葉はなっとらん」と言って悲憤慷慨していた実年氏がいた。
 特にむすこが父親に「やってくれよ」と、「さも友達のように言うのはけしからん」と、顔をゆがめて力説していた。
 この人は、戦前戦後を通じて教職にあったそうで、恐らく明治生まれの堅物のおやじさんに教育されたであろうことが想像される。
 とはいえ、むすこ達が親御さんに「やってくれよ」と言うのは、旧教員氏ならずともだれが聞いても穏当ではない。
 ことによっては旧教員氏が石頭かと思ったがそうでもない。
 そこで、その気になってテレビを見ていると、ヤングもののドラマの中で、若者たちの日常会話に「くれよ」が何の抵抗もなくボンボン出ていた。
 また、ギャル達の当節の会話にもひどいのがあった。
 現代用語にもない言葉がまことしやかに出てくるが、聞いていて 「はてな」といぶかることもしばしばで、例えば「ウッソー」「ホントウー」「カワイー」 である。

 おしゃべりがのりにのってくると、これらの言葉がしきりに出る。
 おまけに、だんだんボルテージが上がると、ギャルたちはキンキン声になってくる。
「エエッ、ヤータ」
 と結びはこうである。
 よく見ればこの娘、顔は少しひねて二十五歳ぐらいに見えるが、聞けばハイティーンだという。

一方、街でTVのインタビュアーが男子学生らしき若者にマイクを向けている。若者は、
「一応……」
 とさりげなく言う。
一応とは、副詞で「ひとまず」 の意味である。
 だから、他から質問された場合、「一応」は理にかなっているものの、連発すると鼻につく。
 ただしかし、大学生が何のてらいもなく言うあたり、英語なら「アンド」か、中国語なら「ナガ」といった感じだが、あまり深い意味はなさそうだ。
 要するに、現代っ子は一般に新語をやたらと使いたがる。
一人が使ってカッコイーと思ったら伝染病のようにまんえんする。「スッゴイ」「キモチワルーイ」
「ベツニー」「バッカミタイ」「シンジラレナイ」は代表的なギャルたちの言葉である。
 この言葉は女の子専用かと思ったら、それなりに男の子用にアレンジして「バッカミタイダ」と
軽く言い放つが、男の子の言葉はどことなくぎこちなく、さまにならない。

 近ごろの若者は国語に弱いという。また、活字音痴とさえきめつける人もいる。
 言葉や活字といえば、もとを正せば国語のことである。
 だのに日常の流行語だけは案外長(た)けていて、仲間同志で言う「バカミタイ」などはスラスラと出るから不思議だ。
 また、このごろのテレビドラマを見たり、列車の中で学生の話をそれとなく聞いていると、しきりと「マジ」が聞こえてくる。
「マジに聞いてくれよ」
 とか、
「これはマジな話だけど」
 といったあんばいである。
「マジメ」というよりか「マジ」が、えらくかっこうがいいらしい。
 この言葉を、日本語の基礎を知らない外国人が聞いたらどのように受け取るだろうかと思う。
「マジ」が正しいのか「マジメ」が正しいのか判断がつかないままになってしまうかもしれない。

 某大学助教授の市川孝一さんが腹芸について学生に質問したら、
「宴会でかくし芸のときにやる芸当です。おなかに顔をかいて踊る……」と答えたそうだ。
 ほかの学生もそう思っていたようで、その答えに反発する学生はいなかったという。
 学生は「腹芸」そのものを素直に解釈したまでで、マトはずれではない。
 がしかし、今後大学入試で「腹芸」 の意味を問うたら、幾人がまともに答えられるかどうか疑問だ。
 まず意味とは別に幾人かは、フクゲイと読む人がいるのではないか。
 正当な読み方はハラゲイで、腹の芸当でなく、いわゆるあおむけに寝た人の上で演じるかるわざの意味である。
 もう一つは、さきの答えのように腹に顔などを書いてさまざまに動かす芸もあるが、これらの答えは表向きのもので、もう一つの答えが裏に隠されている。
 すなわち、右の具体的な例から転じて「言動や理屈によらず、度胸や経験で物事を処理すること」
であり、もう少しわかり易くいうと「隠れた経験から物事を処置すること」である。
 この種の解釈は故事ことわざおよび格言によくあるが、これらは現代の世相にはあまり通用しないので、試験問題としてはなじまないのでないか。
 また「三味線を引く」というややこしい言葉もある。
 この言葉は入試には出ないと思うが、意味はひねくれている。
「人間は万物の霊長である」といわれ、言葉を話す唯一の動物である。
 それだけに、言葉の使いわけ、運用といった面に苦労しているわけだが、一方言葉があるがために、文化が進展し、その恩恵に浴することもできるのである。
 が、よいことばかりではない。言葉の使いようによって、人間関係がうまくいったり、そうでなかったりして、ぎくしやくすることがなきにしもあらずである。
 例えば、サラリーマン (OLも) は、朝のあいさつに 「おはようございます」 という。
 この単純明快な言葉が口をついて出る人は、その一日がなんとなくスカツとするが、逆に言えない人、言わない人は、その人だけにとどまらず、多くの方々が 「なぜ、あいさつをしないのだろう
か」 といぶかる。
 そうなったら人と人との和、結びつきはうまくいかない。
 次第に職場に暗い空気がただよい、不協和音が聞こえてきそうな気がしてならない。
 ギャルたちがよく言う。
「エエッ、カッコイー」
 も結構だが、冗句でも、パロディーでも、そしてお堅い話であっても、言葉は表情と同じように喜怒哀楽が伴う。
 だから相手にもそれなりの心の起伏が伝わっていることで、いくら軽薄な言葉であっても、いったん発言したら取消しはきかない。
 すなわち「覆水盆に返らず」 である。
 かりにOLたちが、
「それ冗談なの」
「冗談よ、悪く思わないで・・・・・」
 と断っても、気安い人はともかく、ところかまわず「冗談よ」とは逆に本音と受け留められる。
むしろ、
「あれ、彼女の本心なのよ。警戒しなきゃ」
 と二の足を踏む。
 言葉は慎重に扱わないと、あとで臍(ほぞ)をかむ(後悔する) ことになる。

おわり

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