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Getting Mad
怒っているんだぞー
済みまへん。たわごと、愚痴が多くなる年代です。あまり深くに考えず、適当に読み流してください。
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企業の若いヘンジニア(変人)田中耕一さん(43歳)がノーベル化学賞を授与されることが発表されました。今までは高齢の大学教授がほとんどでしたのですばらしい快挙で、多くの研究者達にも励みになる出来事でしょう。しかし、よくその後の報道を見聞するにつれ、不思議な感じを受けます。
その会社は以前に、この研究結果に対して2万円の報奨金しか支払っていないのです。それが受賞発表後、彼を主任から役員待遇に昇進させ、特別報奨金も支給するという話が聞こえてきます。つまり会社は今まで彼の研究成果に対して正当な評価をしていなかったことを認めたということでしょう。
過去にも海外で評価されてから国内で話題となり、結果、文化勲章などが授与されるケースが多かったと思いますが、 なぜこういったことになるのでしょうか?
一番身近で情報が入手しやすい身内のことなのに世界が認めるまで、会社、大学、国内で正当に評価できなかったということです。まず社内、学内で認められて、その後に日本、ついで世界に認められるというのが一般的な筋道ではないかと思いますが、いつも日本を飛び越えて世界の国が先に成果を評価してくれています。日本の社会(官庁)は人々の功績に対する調査、評価は不適切(いい加減)としか言わざるを得ません。周りから言われてやっと気付いて、重い腰をあげる役人がいるお国柄です。
私たちの身近には隠れたすばらしい人達がまだまだたくさんいると思いますので是非、彼らに日の目を見させてあげてください。
しかし報道を見ていますと手のひらを返したような周りの対応が滑稽に見えます。
(あなたの横にもノーベル賞候補がいるかもしれませんよ。ひょっとしたら私も?)
2002/10/12
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企業に対する内部告発が増え、今まで闇に隠れていた企業の不祥事が次々に明るみになっています。これらは氷山の一角であって実際にはかなりの数のごまかしがいろいろな会社で行われてきていたと思います。しかし、内部告発という形は以前にはあまりなかった現象でしょう。
主な理由として考えられることは企業と従業員とのきずなが薄れてきたためと考えられます。雇用が保障されてきていた以前とは違って、終身雇用制度の崩壊およびリストラのために、簡単に従業員を解雇する企業が多くなった結果と思います。不正の実施を指示された場合に、以前であれば悪い事だと知りつつ会社のため、引いては自分のためと、公にしてこなかったのでしょうが会社を取り巻く環境がかなり変わってきたうえ、会社の無慈悲な仕打ちに対して、告訴に踏み切るようになったものと思われます。市民の意識の向上、情報公開の浸透も確かにあるでしょうがやはり会社への忠誠心が無くなってきたのが第一の原因でしょう。
告発によって会社は倒産などに追い込まれていますが不正を働いたのですから当然の結果と思います。これからの時代では、企業と従業員の関係は「give
and take」だけの割り切った関係になり、その結果、不正を働けば会社がつぶれる時代となりました。
企業にとって健全な運営は消費者にとっても好ましい結果となってきています。
しかし、ごまかしの1つである賞味期限切れに対する見解については少し考えさせられることがあります。企業にとっては賞味期限は安全のために当然、余裕を見ているはずですし、問題がないのであれば延長してもかまわないと思いますが、記載期限を杓子定規に判断すると支障ない物であっても廃棄しなければなりません。これは果たして正しい行為なのでしょうか。世界には食糧難で飢え死にする人がたくさんいるにもかかわらず、ここ日本では廃棄してしまっているのです。ただでさえゴミを処理するところが少なくなっているにもかかわらずに。賞味期限の延長が可能なのであれば少しは臨機応変に処置をすることを認めても良いのではないでしょうか。今の日本は少し過剰品質になりすぎているような気がします。
(私は少々期限が過ぎても食べていますのでその内、食中毒になるかもしれません。)
2002/7/21
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5月8日に中国の日本総領事館に北朝鮮住民が駆け込むという亡命事件がありました。報道されたビデオでは総領事館員は緊迫感も無しに治外法権の無視に対して機敏に抗議するわけでもなく手をこまねいて、更には中国軍人に対して帽子を拾ってやるサービスまでしているのが映し出されていました。日本人の優しさ、優柔不断が如実に現れています。
また日本政府の対応も事なかれ主義の考えが背後に見られ、小泉首相も、「よく調査して冷静に慎重に」と事を穏便に運ぶように指示していたようです。しかし国民世論の批判が高まってくると一転して中国政府に対して抗議のトーンを上げだしました。
これら一連の動きを見ていると「日本人らしさ」がよくわかります。
日本の伝統である謙虚さを美徳とし、まず相手の気持ちを想いはばかり、自己を主張しない体質であります。また世間体を気にして、言いたいことも言えないのも日本人の特徴です。日本人同士では「なんとなく」がお互い分かり合っているため阿吽の関係で通じ合うのですが、こと、外国人に対しては通用しない考えです。外国人には常に自己の考えを主張しないと相手に分かってもらえませんし、交渉も対等に渡りあえません。
このような日本人のやさしい(あいまい)性格につけ込んだ外国人の犯罪も日本で増えてきています。日本人のやさしさを悪用した落とし物強盗、荒っぽい金庫強盗などで今までの日本になかったタイプの犯罪が増えてきています。このため日本の安全神話が崩れかけていますし、人間不信の元にもなってきています。
日本人が持っているこれら美徳はすばらしいもので、大事にしていきたいと思うのですが鎖国時代と違って今の時代には通用しない状況になっています。また国際社会に対応するにつれ、日本の社会においても自己主張だけが前面に出てきて、人間関係がギスギスし、人との絆も薄れてきて他人に対して無関心な風潮になってきているみたいです。
(個人的にはこの日本人らしさが好きなんですがね)
2002/5/11
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米国での同時多発テロを受けてテロの撲滅を大義名分にし、日本が戦争放棄を謳った憲法の元での法律を改正しようとしています。自衛隊の行動範囲を広げようとしているのです。どうにかして憲法を拡大解釈して直接軍事行動に参加できるようにとしているのです。事の起こりは湾岸戦争からですが、この時は多額の支援金(1兆円)を出したにもかかわらず行動が遅すぎるなど国際評価は低かったため今度はできるだけ早急にかつ軍事後方支援をし、存在をアピールしたいからでしょう。
今回の許し難い多発テロによる犠牲者のことを考えると心情的にも協力しなければいけないのは確かですが、今回やろうとしている報復攻撃はテロ撲滅の目的はあるにしてもあくまで米国のメンツを立てるための軍事行動です。そのためになぜ法律を作ってまで参加する必要があるのでしょうか。
確かに日本は米国の軍事の傘の元、繁栄してきましたし、国際社会協調の元で何もしないわけにはいかないのは当然ですが、しかし、だからといって直接軍事行動に協力をしなければならないということにはなりません。いくら評価が低いと思われても従来通りの形での協力で良いのではないでしょうか。
憲法9条の元、日本はあくまでも戦争放棄を主張し続けるべきと思います。外部の圧力に揺れ動くからこそ、その要求は拡大していくのでしょう。日本は確固たる態度をとり続ければいいのです。継続は日本の戦争放棄を世界に認識させ、しっかりしたものにしていくでしょう。流れに押されて、なし崩しに法律を改正していけば、ますます戦争放棄が名目だけのものになってしまいます。
テロ撲滅を全面に出し、軍事行動の拡大が世界に広がっています。これで事が収まれば良いのですが。感情で暴走しないことをアメリカに、良識ある行動をタリバン側に、悪のりしないことを日本人に期待したいと思います。
(ウサマ.ビンラディンはいざぎよく裁きを受けなさい。)
2001/09/22
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ついに人間は越えてはならない一線を越えてしまいました。
アメリカに於ける同時多発テロです。
映画の世界だけと思っていた光景が実際に起きたのです。
2001年9月11日にハイジャックした民間飛行機で何の罪のない一般搭乗者もろともアメリカの経済と軍事のシンボルである貿易センタービル、ペンタゴンに突っ込み自爆テロに及んだのです。この無差別テロの結果はかつてない悲惨なものです。その犠牲者は6000人にも及ぶと予想されています。今のところ犯人は特定できていませんが宗教戦争のすごさ、根の深さを見せつけられました。それにしても考え方の違いでここまでのことをする必要があるのでしょうか?かえって世界からの反発を買い、自分たちの本来の主張が受けいれられなくなると思うのですがそれにも関わらずテロリスト達は実行に移しました。
一つの原因として大国アメリカのおごりが有ったと思われます。最近のアメリカの行動には身勝手なところが多数あり、国際的にフェアーではありません。
地球温暖化防止の京都議定書の無視。弾道弾迎撃ミサイル制限条約からの脱退、これらの行動は国際強調からかけ離れた、通常の人々であっても怒りを抱かせる行為、またイスラエルへの一方的な支持などイスラム諸国の人々を逆なでするような行為がその行動を増長させたと思います。
パレスチナの一般女、子供が小躍りして喜んでいる映像が映し出されていましたがこれほどの惨事を喜ぶ、あまりにも悲しすぎる光景です。このことは何を物語っているのでしょうか。またテロに参加した人数は数十人に達するらしいですが計画的にまた組織的に訓練されたこれだけの人数ををそろえられる程、イスラム諸国を追いつめているアメリカに対する不満が大きいのでしょう。
しかし他民族との共存を拒否しているイスラム諸国もまた考えを改める必要があります。
無差別な攻撃をするテロリズムは正義、民主主義への挑戦であってこれを撲滅しなければなりませんがこれまでの構図であった国対国の戦いと違い、新たに顔の見えない陰のテロリストとの困難な戦いになってきました。
一刻も早く、貿易センタービル内にいる被害者が救助されることを願うと共に、感情的に報復攻撃をしないよう、また二度とこのような大量殺戮のテロが発生しないようにお互いの理解を深めて行かなくてはなりません。
やってはいけなかったをやってしまったこの事件をきっかけに残虐テロ行為が更にエスカレートしないことを切に願うものです。人間の不祥事として決して忘れてはならない日です。
(犠牲者の冥福を祈るしか言葉はありません。)
2001/9/13
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オランダで患者の安楽死を合法化する法律が成立しました。(94年アメリカ、オレンゴン州で末期患者の自殺幇助を認める州法がありましたが)個人的には賛成です。
尊厳死とはまた意味合いが違います。尊厳死は過剰な治療による必要以上の延命行為を自らの意志で拒否することで、積極的な医療を施さないことを患者が選択できることです(日本では1992年医師会が、94年には日本学術会議も容認)。しかし今回のこの法律は治療に苦痛を伴ったり、生きる意志が亡くなったりすれば安楽死を選ぶことができるのです。安楽死とは末期患者の要請に応えて医師が致死薬を注射する方法と、医師の与えた致死薬を患者が服用する「自殺幇助」のことです。
この法律の適用に当たってはいくつかの条件をクリアする必要がありますが基本的には患者の意志が尊重されることになりました。
1.患者の自発的意志
2.治癒の見込みがない
3.担当医が第3者の医師の意見を聞く
4.12歳以上で15歳までは親の同意が必要
等の条件が整っていれば実施できるようです。
長らく医師の命題は患者をできるだけ長く生かすように努力することであり、医療技術の進歩で脳死や植物状態で延命を可能にしてきましたがここにきて人間の尊厳を冒しかねない医療について人々は考え始めています。
人間には他の生物と違って明確な意志伝達ができるため生きる権利と共に最後の決定も自分の意志でできると思います。元気な時と違って病気の時は悲観的な考えになるのは当然です。しかし一時的な判断かどうかはその人の置かれている状況で判断できるのではないでしょうか。
意思表示は現在の治療では直る見込みのない人が治療による苦痛、自分の現在の状況を考え合わせ決定したことであって、更に継続的な強い意志であればその選択を尊重すべきです。もちろん意思の表示ができない状況の患者に対しては適用はすべきではないし、できないことであります。
安楽死が世間に受け入れられるかは難しいところです。反対する人は将来、治療の方法が発見される可能性がある、また法を悪用する輩が現れると心配しているようですし、また生きる力を与える治療をすべきとか主張しています。
確かに適用の判断は今後、更なる見直しが必要かもしれません。しかし、その人が不治の病である状況を総合的に判断すればやはり、本人の希望通りにするのが理にかなっているのではないでしょうか。
家族にとっても難しいところでありますがやはり最後は本人の意思が尊重されるべきです。本人にとってもその決断は苦渋の選択であるはずですから。私は安楽死、尊厳死に多いに賛成です。
欧米では寝たきり老人や胃ろうの患者もいないらしい。その理由は高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら口から食べられなくなるのは当たり前で胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると国民みんなが認識しているからだそうで逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると人間の尊厳について考えざるを得ません。日本も欧米の考え方も必要な時期になっていると思います。
参考
最近流行の延命治療の拒否の意思表示ができます。少しお金は必要ですが下記の機関で受付しています。
日本尊厳死協会、日本公証人連合会
(と言いながらその時になったら「死にたくない」と嘆願するやもしれません。あしからず。)
2001/7/15
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4月1日から家電リサイクル法(特定家庭用機器再商品化法)が施行される。
これは使った人(所有者)、売った人(小売業者)、作った人(メーカ)が協力して限りある資源を有効に利用するために作られた法律でエアコン、ブラウン管テレビ、冷蔵庫、洗濯機を廃棄するときに再商品化等料金と収集、運搬料金を使用者が負担することを義務づけた内容であります。
確かに立派な考えの元での法律で、正常に機能すれば廃棄物が減りと共に資源がリサイクルされ何も言うことがありません。しかし、この法律には大きな欠点があると思います。世の中にはたとえわずかなお金でも出すのをいやがる人、手続きを面倒がる人がいるものです。このため現に各地で不法投棄する事件が起きていますし、またこの違法行為を防ぐために監視を強化するとも報道されています。これではかえって不法投棄された物を片づける費用、監視人の経費など余分な出費が各自治体に発生してしまいます。
なぜ家電を購入するとき(事前)にこの料金を徴収する制度にしなかったのでしょう。(以前購入の家電処分には効果ありませんが)こうすれば否が応でも各人が購入時に廃棄、運搬費用を負担することになります。自治体も費用の捻出に苦労する必要はないのではないのでしょうか?
しかし、基本的に産業廃棄物を無くするにはまずは故障時の修理費用を安くすることにあり、これによって買い換えをぐっと押さえることができると思います。修理の方が買い換え費用より高いというのはいかにも消費主義を助長した考えで矛盾を感じさせます。ここにこそ再商品化等料金を投入し、修理費用の軽減をはかり、機器の使用期間の延長に取り組むべきだと考えます。こうすることによって我々消費者達も家電を大事に扱い、結果的に製品を長く使用することになります。
この案には家電メーカーからの反対が大いにあるでしょうけど。
(環境と新しい家電 どちらをとるべきかそれが問題だ--シェークスピア--)
2001/5/1
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- 教育問題
世紀後半には教育現場の混乱、少年犯罪が問題になって教育の改革が叫ばれています。
しかし、今の大人のいい加減な行動をみていると子供達にとって、教育された内容と現実の格差を見せつけられれば何が正しいのか解らなくなるのは当然で、将来に夢も持てなくなってしまうでしょう。車からゴミのポイ捨てなどを目の当たりにするといくら道徳教育していても子供たちにとっては口先だけの教えに矛盾を感じるのは当たり前で、その教えを実践しようとは思わなくなってしまうでしょう。加えて、十分に大人になりきっていない若者達が親となった現在では家庭での子供教育もなかなか難しいのではないでしょうか。
かつては身近には高等教育を受けていないにも関わらず、人生の師範となるような立派な人たちが大勢いたものでした。しかし今は最高学府を出ても違法な行為に走る輩が多いのは嘆かわしい限りです。私たちの小さい頃はそれぞれの分野で域に達した大人たちを見て育ってきましたし、それが道徳教育ともなっていました。
身勝手を表現の自由とはき違えて常識はずれな主張を繰り広げたり、自己中心的な行動をしたりする人が増えてきています。この考え方は自分の人生を奔放に生きたいという、ある面ではもっともらしい考え方ですが、反面、自分だけが満足できれば他人はどうなっても良いと言う身勝手な思想であると思います。権利があるところには常に義務はあります。
解決の1つとしてまず今の大人の意識を改革していくのが先決で、身近な大人が常識ある行動を見せれば自然と子供たちも立派な人間に育っていくでしょう。また子供たちに日頃からルールの大切さ、自分の行動への責任感を強く説いていく必要があります。教育とは学校で知識を教えるだけでなく社会の環境が教師であることを知ってほしいですし、また大自然の中での情緒教育をなおざりにした教育では仮想世界のゲームの中にいるようなもので、いたわりあう社会を取り戻すにはほど遠くなります。
- 公害、ゴミ問題
昭和40年から50年にかけての高度成長の時代に顕著な公害問題は起きました。
国を挙げての高度成長政策であったため、物づくりを優先し、自然の破壊が進み、環境がどんどん悪化しました。また使い捨て、無駄遣いによってゴミが多量に発生して現在では捨て場所に困りはてています。
人間は勝手な者で自分ではゴミを出すのにそのゴミを処理する施設は来てほしくない、排ガスを出す車は近所を通行しないでほしいと主張します。しかしそれは自分さえよければという身勝手な考えであり、公害訴訟を起こしている人達もよその場所では公害を出しているのは事実ですし、このことを認識する必要があります。
このままでは誰かがどこかで犠牲にならなければなりません。唯一の解決方法は余分な物は作らない、出さないことです。最近はその消費行為が最終的には自分にもふりかぶってくることがやっとわかってきたため、あわてて規制を強化するようになってきました。当時と比べ規制が厳しくなった今日、かなり海、川もきれいになってきています。喜ばしいことですが少し遅すぎた感もあります。早く子供たちが自宅近所でフナ取り、ほたる鑑賞など自然を相手に遊べるように環境が回復してほしいものです。
- 民族紛争
20世紀は戦争の世紀であったといえます。前半は帝国主義の台頭で、後半は民族紛争が原因で起きていました。この悲惨な出来事は日本人に限らず、当事国では十分に認識しているはずですがやはり戦争はなくなりません。
なぜでしょう。先進国は戦争仲裁を唱えながら一方ではその背後で戦争当事国それぞれに武器を売っているようです。利益があれば他人がどうなろうとも知ったことでないという現代の風潮を如実に表しています。この矛盾した行為をやめればかなりの悲惨な殺戮は少なくなると思うのですが?
まず、利益を平和より優先した武器輸出国(商業主義)の考えを改めないといけないのではないでしょうか。戦う武器をなくしましょう。
- 地球温暖化
中国人14億人を含め発展途上国がみんな車に乗り出すと地球はどうなるのでしょう。原油は底をつき、気温は最終的に5度ぐらい(??)上昇するのではないでしょうか。しかしこの行動を止めることはできません。彼らにも便利さ、豊かさを求める権利はあります。
先進国はエネルギー、温暖化の解決のために新しい技術を開発していかないといけないのはもちろん、発展途上国に自分たちが辿ってきた環境汚染など同じ失敗を繰り返さないように適切な技術指導、援助をしていく必要があると思います。地球に優しい代替エネルギーを早急に!
- 食料問題
最近のグルメブームで日本では手のこった料理をテレビ、雑誌で盛んに紹介していますがアフリカなどでは飢餓の危機に瀕している人々が多くいます。この食料飢饉は元々、先進国の化石燃料の消費及びフロンなどの化学物質の放出が起因となった異常気象による砂漠化の進行が原因と言われています。しかし今の日本では食べ物を粗末にするなど贅沢の限りを尽くしています。日本で残飯となった量の食料があればどれほどの人々が助かるのでしょうか。
かつては自然の恵みを残らず色々なことに利用し、捨てるところはないぐらいでした。資源の無駄遣いはやめましょう。資源は無限ではありません。
科学、技術の向上に伴って生活の豊かさが増すに従って人類の心はだんだん貧しくなってきています。
21世紀にはこれらの問題が解決できるようにお互い努力し、また問題意識を持って頑張りましょう。
(21世紀は大変な世紀になりそう。中頃までには私は存在しておりません。あしからず。)
2000/12/31
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- 日本人
オリンピックはおもしろいものです。日頃見ていないスポーツ及び応援のお国柄が見られ、ついついテレビの前に釘付けになってしまいます。日常、日本をあまり意識しないのですがオリンピックを見ているとつい「ニッポン」と応援したくなります。(応援するときはニッポン、普通話するときはニホンどちらが正しい呼び方なのでしょう?)一般の人にとっては日本人が日本を意識するのはこのときぐらいではないでしょうか。この時、潜在的に日本という民族意識を持っている自分に気が付きます。
しかし単民族である日本人以上に、多くの帰化民族が集まっている諸外国の国家意識の強さには驚かされます。この意識はどうして出てくるのでしょうか?私の理解を超えています。
ところで、怖じ気づかなくなったといわれる現代っ子が参加している今回のオリンピックでも肝心なところで失敗してしまう(体操、野球、ソストボール)日本人の癖は直っていないようです。精神論の日本の国であっても農耕民族と狩猟民族の違いでここ一番というときに弱いのでしょうか?
もう一つ、インタビュを受けたほとんどの日本選手が「皆さんのおかげです」といっている場面をよく見かけます。確かにみんなの協力がなければなかなかオリンピックに出場するのは難しいことでしょうがもっと私が努力したからだと胸を張って言ってもいいのではないでしょうか。これにはきっと協会からの厳重なる通達があったように見受けられます。ここでも日本人的気配りが見受けられます。
しかし、4年に一度のオリンピックでの勝利は喜びもひとしおのようです。全力を尽くして勝負に挑んでいる姿や表彰式の時にベストを尽くした国籍の違う者どうしがお互いに抱き合い、健闘を讃え合っている姿にはやはり感動するものです。私たちも国を意識せず、一生懸命になっている選手個人を応援できるようになりたいし、そのときが民族を越えた真の地球人となった姿ではないかと思います。そういった意味で個人的には表彰式での国旗掲揚をなくして欲しいと思っています。
目下、国際紛争中の人達にもこの意識を持って欲しいものでし、私も早くそういった人間になりたいものです。また選手も国のために競うのではなく個人のために競って欲しいものです。国の威力を誇示させるあまり選手にドーピングまで行わせてしまうなんてかわいそうです。
(しかし、ガンバレにっぽん −俗人の私−)
2000/9/28
- 選手選考
競泳選手の千葉すず選手が連盟のオリンピック代表の選考結果に対して不服を述べています。アメリカのようにある指定された試合で実績を残した選手しか代表になれないというシステムとなっていればこういった問題は起こらなかったと思いますが、日本の選考では単純に成績だけで判断するのではなく今までの実績、過程、人格を選考の対象として見る傾向があるため、当然のごとく不透明なところがあり、誰もが納得できるような選考結果になっていません。必ずしもアメリカの選考方法がよいとは言いませんが少なくともアメリカの選考方法は明確です。
しかしこの方法は以前、マラソンの小鴨選手みたいに1回だけの結果だけで代表に選ばれ、プレッシャーに負けて十分に実力を発揮できなかった例があるように日本人には一発勝負に弱い面があり、難しいところです。
一方、マラソンの弘山晴美選手は無念さを覗かせながらも反論はせず、結果に従いました。どちらの行動が正しいかは即断できませんが、一方はアメリカ的、他方は日本的な行動です。
今回の提訴で気づいたことは今までの選手は弘山選手同様、密室で議論された決定に仕方なく従ってきたと思いますがこういった問題を公にし、今後の選手のためにも立ち向かう千葉選手の行為はある意味では有意義であると思います。少なくとも今後、連盟は選手を含めみんなが納得できるだけの判定資料を開示すべきです。
しかし、今の若者は不満に思ったら相手が組織であれ、対抗しようとする気概を持ってきており、考え方の変化を痛感します。だからといって何でもかんでも訴えるというのは考えものでくれぐれもアメリカのようにいきすぎないよう注意して欲しいものです。
いずれにしても日本人は人情(集団中心)からドライな考え方(個人中心)に徐々に変化しつつあるようです。
(「NO」と言える日本人になってきたな。 −−石原慎太郎−−)
2000/6/14
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- 地球温暖化
このところ暑い日が続き、どこともクーラーが大忙しです。
以前であれば門門で打ち水をし、建物にいろいろな工夫をして、更に風鈴など感性に訴えて暑さをしのいでいました。これらの方法であれば周囲に影響を及ぼさず、自然の涼しさが得られたものです。しかし近頃では熱を吸収するコンクリートのかたまりで建物もできているため、暑さに対する工夫のしようが無く、ただ単に文明の利器であるクーラーをがんがんかけて暑さをしのいでいる状況です。これでは当人だけは快適な生活は送れますが周囲の環境温度は確実に上昇しています。最近ではこの悪循環の繰り返しです。電力需要のピークといえば冬場でしたがそれが夏に変わったのは1968年からで冷房機器の急速な普及が始まった頃からです。
東京はヒートアイランド現象のせいで世界の平均上昇気温の4倍の2.4℃も上昇しています。またその周辺地域(神奈川県など)ではこの影響で大気汚染、気温上昇現象が増えてきています。
ヒートアイランド現象の原因としては車、クーラーなどがありますがアスファルト、コンクリートの保熱効果の影響もあります。その他にも土地開発により、温度を下げてくれる緑、河川がどんどん少なくなっていることもその傾向に更に拍車をかけています。
以前の人間は自然と共に生活してきていましたが、この20世紀の時代の人類は多くの場合、自然に逆らって活動をしようとしています。
先祖代々、営々と維持してきた地球遺産を一代の放蕩息子があっという間に浪費してしまうがごとく、資源を消費した結果、今日、ヒートアイランド化だけでなく地球温暖化という人類にとっての異常事態に遭遇しています。
人間のわがままな行動のおかげで地球上の生物はえらい迷惑です。犬も熱いアスファルトの上を歩かなければならないし、蝉はクーラーの熱い空気にさらされています。蝉はまだ涼しいところに移動できますが移動できない植物は限度を超えるとただ死滅していくしかないのです(砂漠化)。やがて、快適さを求めて、地球のバランスを崩してきた張本人である我々にも付けが回ってきています。因みに日本の最高気温は現在でなく1933年7月25日15時山形市で40.8℃、湿度33%。世界記録は1921年7月8日イラクのバスラで58.8℃ですが暑さの記録更新は望みたくないものです。
(資産が無くなれば他の惑星へ脱出。地球(星)も使い捨ての時代になった?)
2000/7/29
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- ナスダックジャパン
先ほどの高額納税者リストを見るとつくづくインターネット関連産業のすごさを感じます。
若者であれアイデアさえあれば一夜にして億万長者になってしまう時代です。
またストックオプション(企業が自分の会社の役員や従業員に前もって決めた価格で一定数の自社株を買う権利を与える制度)で一夜にして中小企業の社員が何億円もの資産を手に入れるケースも現れています。この傾向に拍車をかけたのがアメリカのナスダック(ベンチャー企業などの株を扱う)で、今やこの業界が日本経済をも引っ張っています。この日本版であるナスダックジャパンも6月19日から取引が開始されます。
しかしここにきてネット関連会社に危うさをはらみつつあります。ヤフーを始めアマゾンコム、ソフトバンクなどは本業の経営利益は赤字であるのにもかかわらず、投資先などの株売買損益だけで利益を出しています。この状況は当面続くと思いますがこのような含み益だけに立脚した経営には不安がつきまとっています。会社への期待感が薄れてきた場合、即刻にこの図式は崩れさってしまいます。現状は過大評価されすぎていると思います。この調整はどっかでしなければならないときが来るでしょう。
しかしながら昨今のインターネットの発展はめざましいものがあり、レコード会社、放送、通信会社、証券会社など大きく仕事のやり方を変えて行かねばならなくなっていますし、インターネットの流れには逆らえなくなってきていますがこの流れは速すぎ、法律の面での整備が追いつかない状態です。
昨年の株式売買手数料の自由化を受け、オンライントレードが一 気に本格化し、インターネットで資産を運用する時代になりつつあります。初心者にとっては、証券会社の窓口に行くのは敷 居が高いが、オンライントレードなら手数料も安く、小額の投資でも気兼ね なくおこなえるため、ますます利用に拍車がかかってきています。
産業革命は筋肉の成長、情報革命は知恵の成長といえますが依然として汗水垂らして働く仕事が社会の基本であることは明白であり、若者にもこの点は認識しておいて欲しいものです。
(私もこの流れに乗ってこつこつと小銭を貯めたいなあ −−小市民−−)
2000/06/17
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- 少年法
連続して17歳の少年による異常な犯罪が有りました。(主婦殺人事件、バス乗っ取り事件)いずれの事件も動機が金品奪略が目的でなく、犯行も衝動的でなく計画的である点、特異な犯行理由(人を殺すのを体験したかった。社会に自分をアピールしたい)である点が特徴的です。
この事件を含め最近の少年による凶悪事件の多発により、少年法の改正が俄然脚光を浴びてきています。近頃の子供は成長が著しく、体力的、精神的にも大人顔負けになってきており、私としては刑事処分適用年齢の引き下げに反対するものではありませんが、これらの事件の背後を伺い知るにつれ、現社会の矛盾が大きく影響しているように思われ、少年法の改正だけでは少年犯罪を抑えきれるものではありません。
多感なとき、純粋なときの学校での詰め込み教育、陰湿的ないじめ及び周りの大人の打算的な生き方、悪事によりあぶく銭を得ている状況などを見聞するにつれ、挫折、幻滅、逃避、同調する考えが芽生えてきても不思議ではありません。抜本的な社会環境改善が必要であり、我々大人も大いに反省し、若者が悩まなくてもすむような社会にする必要があります。
しかし最近、精神的な障害者が増えてきたのはなぜなのでしょうか?人間の高度化及び環境ホルモンによる脳の異常進化?、人間関係の疎遠、ゲーム、映画による暴力、殺人に対する感覚マヒなどが原因なのでしょうか。
(高度文明と引き替えに人間らしさがどんどん失われていく。さびしいですね)
2000/5/11
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- 情報手段
携帯電話が爆発的な人気となっています。E-メール、インターネットが使えるようになってますます需要が伸び、携帯電話が通話だけでなく情報の伝達手段となっています。仕事のツールとしてビジネスマンに、遊びのツールとして高校生から中学生までに広がりを見せています。その数は固定電話を上回る勢いです。
しかし、普及するに従っていろいろな弊害も出てきています。高校生達の携帯電話の使い方を目にするとたわいもない会話や占いなどの遊びに使っているようで、これではお金がいくらあっても足りません。当人達にもこの負担を意識しているのかどうか分かりませんが、電話代を支払う分、巷では若年層の購買意欲が薄れ、ジュース、衣料品などの売り上げが減っているそうです。
またマナーの悪さも目立ってきています。運転中の通話、人前お構いなしの会話、音楽会などでの呼び出し音、少し配慮すればすむことなのに他人に不愉快をかけていることに対して無神経さが蔓延しています。
一方、この携帯電話は今後、いろいろな使い方が予想され、防災、介護医療、事務処理などに大いに貢献すると思います。非常時や事故の通報、自宅に居ながら体温や血圧のデータを医療センターに送っての健康管理、老人介護、金融機関への入出金、迷子の捜索など。
このように携帯電話は社会の仕組み、考え方を大きく変えようとしています。1種の産業革命です。こうなると携帯電話には「便利さ」から「確実さ」が要求されるようになり、社会的な責任も大きくなってきています。最近、相次いで起きている接続設備の不備による電話が繋がらないといったような不具合が許される時代ではなくなってきています。また、使用者の増加に伴って通話料金の低減も求められています。NTTさんお願いしますよ。
(しかし携帯で居場所まで分かるようになると困る人が出てくるだろうなあ)
2000/5/2
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- スポンサー
バラエティ番組が大はやりです。タレントが本来の芸も見せずコメンテイターとして参加し、適当な意見(雑談?)を述べているような番組や若手お笑い芸能人や素人をネタにして意外性を売り物にしたり、その人格を無視したような言動で笑いを捕る番組など数え上げたら切りがありません。こういった企画は制作者にとっては苦心する必要もなく楽でやめられないでしょうし、タレント側も適当なコメントをすれば収入になるのですからお互いの利益が一致して、馴れ合いの番組となっているように見受けられます。(往年の映画スター、歌手が最近よく参加しています)
またどこのチャンネルでも似たり寄ったりの番組であり、バラエティ、芸能スキャンダル、3面事件などと内容的にもあまり独創性が感じられません。
以前、大宅壮一が言っていた「日本人1億総白痴化」がますます現実味を帯びてきています。
テレビ会社が目先の視聴率を気にして安易な、また費用のかからない番組制作に走っている結果でしょうが、まず大金を出しているスポンサーから意識を改革しないと、このような傾向に歯止めはかからないと思います。もう少ししっかりした信念(企業イメージを高めるための)を持ってTV会社に提言すべきですし、視聴率を気にしないアカデミックな番組制作にも協力すべきです。テレビ局側も自主的に放送はかくあるべきだという姿勢でもって番組を制作すべきだと思います。それでこそテレビ本来の役割であり放送のあるべき姿でしょう。
一時的に笑って済ますのもストレス解消になると思いますのでこういった番組をすべて否定しているわけではありませんがテレビの使命はこれだけではないと思うのです。輝く番組も作って欲しいだけです。後になって何にも印象に残らない番組なんてわさびのない寿司みたいなものです。
ついでにもう一言、いわせてもらいますと番組の商品、賞金額が大きくなってきています。それを視聴者に還元するのなら話が分かるのですがタレントに出演料を払ったうえに更に賞金まで手渡す必要があるのでしょうか。納得できません。
(グルメ、温泉の旅なんて最高の番組じゃん。−−あるタレントより−−)
200/3/25
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- キャリア気質
最近の警察の不祥事対策のため特別観察をすることになっていた警察庁の局長が次ら率先してそのモラル低下の傾向に拍車をかける事件が新潟県で明らかになりました。観察される側と、する側が連れ添って禁止されている会食をし、公務を切り上げて観光までしていました。俗に言う官官接待です。おまけに接待される側は宿泊地までを希望し、そのつじつま合わせのため、、隣接の土砂崩れ現場の視察までを設定したようです。本当に馴れ合い、形式だけの視察です。仕事よりも身内の接待を優先した新潟県警本部長も攻められるべきでしょうがそれ以上に権力を傘に着た中央の官僚気質が問題でしょう。
今回の不祥事の根本責任は中央権力をかざした関東地区局長側にあると思いますし、本部長もこの接待がなければ女性監禁事件に対して見苦しい言い訳をする必要はなかったと思います。
この原因として考えられることは国家公務員上級職試験に合格した(130人程度/年)いわゆる限られたキャリア組が若いときから県警幹部に登用され、現場や苦しみを知らずして幹部になったため一般常識感覚がマヒし、キャリアとしての自覚がないまま権力だけを手に入れた結果でエリートのおごりが感じられます。
このキャリア登用システムは今日ではいろいろな弊害が生じており、到底受けいられる環境にはありません。キャリア制度について考え直す時期が来たと思います。
しかし国会議員がこのことに対してとやかく口出しするのはいかがなものでしょうか。もともと警察法は戦前の内閣が警察権を指揮したことがあり、このことを教訓にして警察に中立性を持たすため制定された制度です。くれぐれも逆行しないように。
それにしても今回の事件で明らかになった国家公安委員会の委員の報酬が1週間に1回1時間の会議に出席して年俸2600万円とは驚きです。
(試験に合格しただけでは大岡越前にはなれませんぞ。)
2000/2/29
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- 社会病
やはり世の中が異常になってきています。加江田塾、9年間女性監禁、日野小学など精神的に病んだ人達が起こした犯罪が増えています。
世の中複雑になりすぎ、精神的に支障を来し、異常な行動に出たためと思われます。これら事件の内容を見聞きすると世紀末的なまた矛盾の多い世の中に悲観し、心の支えを求めている人達がいかに多くなってきたかを物語っています。また非現実的な話を信用するのもその現れでしょう。後者の2つの事件は子供時代に何らかの理由で集団社会に溶け込めなかったなどの環境が一致しています。その結果、自分の世界に閉じこもり、独自の世界にのめり込むあまり現実と仮想の世界の区別が付かなくなってしまったのではないでしょうか?それと同時に、存在価値を失った自分を回復しようと自分でも支配できる年下の子供達に実力行使を行ったのでしょう。
しかしそれぞれ救援信号は発していました。この信号に周りの人達がいかに適切に対処できるかでその人の人生は変わってきます。こういった人達が気軽に相談でき、アドバイスしてもらえる機関が是非とも欲しいものです。
それともう1つの原因としては最近の若者は世の中、楽になった分、精神的に弱くなったことが考えられます。根性、チャレンジは避けて通り、その場の環境に甘えてしまうなど逃避指向が目立ちます。
なにくそ!という ど根性を持って欲しいものです。そうすれば自分を克服でき、更には社会にも存在をアピールでき、自然と社会に溶け込んでいけると思います。
(根性、挑戦 私にとっても懐かしい言葉だなー)
2000/2/6
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- 働く女性
女性の社会進出がますます盛んになってきています。私が思いますに、この傾向はファミリーバイクがブームとなった時、女性がこれを利用するようになってきてからだと思います。今まで家庭に閉じこもっていた女性達がバイクに乗るようになってその活動範囲が格段に広がって、つき合いと遊びを通じて世間の広さを再認識してきたためでしょう。その傾向は生活が豊かになって、軽四の普及により更に高まりました。この結果、今までの男性主導の社会の不公平さに目覚めてきて進出のきっかけとなったと思います(最も大きな影響はマスメディアでしょうけど)。これとともに、生活を豊かにするための共稼ぎも進出に拍車をかけています。
これはこれでいいことなのでしょうが、しかし、社会進出に伴ってだんだんその行動に女性らしさが失われてきていると思うのは私だけでしょうか?電車の中での化粧などはかつてはなかったことです。男性と同等の仕事をしていこうとすれば上品でおしとやかにしていては競争に勝てませんし、立派な仕事もできません。しかし何もすべて男性と同じやり方をする必要はないと思います。女性らしい考え方、独自性でもって男性と一緒に仕事をしていっても良いのではないでしょうか。(ごく一般的な意見ですね。すみません)
また、女性として仕事に精を出すのも1つの生き方でしょうが、私としては赤ちゃんに母乳を与えられるのは女性だけですし、子供が小さいときには家庭にいて、子供と一緒に和やかな時を過ごすのもいいのではないかと思っています。
学校から帰ってきた時、家の中から「お帰りなさい」の声が聞こえてくるのは子供にとってはうれしいものです。家族の結びつきを感じる一瞬でしょう。最近は共稼ぎが多いため寂しい思いをする子供も多いと思います。慎ましくとも楽しい我が家。これが1番ではないでしょうか。
このため育児休暇はもちろん子育てが終わった後の再進出には彼女たちに寛容な制度、援助が必要です。
(家にいるのは主夫でもいいのでしょうね。−−落ちこぼれ亭主−−)
2000/2/1
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- 長寿社会
本日、アメリカのバイオ企業が人間の全遺伝子の90%の解読を終えたと発表しました。政府間の協力で進められている国際共同チームのヒトゲノム計画より先行しています。このヒトゲノム計画は遺伝子情報を人類の共有財産とするため国際的に設立されたものでありますが、当然のごとく、得られた情報を特許として登録し、利益を得ようとする民間企業の方が一歩先んじて解読にこぎ着けています。
何十万個ものDNAを最新のコンピューターで解析して病気の治療、防止に利用するためですが技術の進歩に感服するとともに人間のどん欲な欲望に不安も広がります。
人間の究極の願望である不老長寿を商売の種にしようとしているのでしょうが、これでは自然の摂理を無視してしまって、最早、人間改造になっているわけです。
この先、どんどん寿命が延びた場合、人類はどうなるのでしょうか?新しい生命が生まれない限り、年寄りばかりでは新しい考えも出てこないと思うのです。一人の権力者がいつまでも社会を支配してしまう可能性すら十分に考えられます。また優秀な人間及び金持ちだけがこの技術の恩恵を受けて、生き延びるようになってしまう危惧さえあります。
やはり人間は惜しまれながら天寿を全うしていくのが花だと思うのですがいかがでしょうか?
(更に寿命が延びたら私は生まれる必要がないのでしょうか?−−赤ちゃんより−−)
2000/1/11
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- 2000年を迎えて
この100年は人類誕生以来、いろんな面で一番変化に富んだ世紀ではなかったかなあと思います。
科学技術の発展に伴い、幾多の進歩が遂げられてきました。が反面、高度成長のもと裕福さと欲望を求め続けてきたあまり、公害、薬害、拝金主義など負の遺産を21世紀に残さざるを得ないことを我々世代は大いに反省する次第であります。
遺伝子操作(動物、植物)の研究など人間の欲望は止まることを知りません。こういった先端技術の成果を生かすも殺すも、次の時代を担う若者の良心に委ねられて人類の未来も左右されます。
しかし日本では最近ほど若者が社会に対して無関心な時代はないように思います。この4半世紀、重大な世相変化がなく、裕福さの恩恵を受けてぬるま湯の温泉にどっぷりと浸かってきたためと思われます。
おしゃれ面ではあれほど自己主張を発揮できる若者であるのに社会に対しては自己を優先させた無関心、無気力、身勝手。また短絡的な発想で行動を起こしてしまうのはなぜでしょうか。
そういう考えになってしまう社会にしたのは今の大人のせいというかもしれませんが、そうであるならばそれを改善していこうという前向きの意識を持って欲しいものです。もう少し社会との共存というものに関心を持って欲しいものです。
これからの世代は人間との共存とともに環境を大事にした自然との共生も計っていく必要があります。さもなければ??。
投げやりにならず、よく考えてしっかりした行動をとって、そして頑張ってください。
(因みに21世紀は2001年かららしい)
2000/1/2
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- ゴミ捨て場
先ほどフィリピンのマニラで日本から運び込まれたコンテナの中から多量の産業廃棄物が発見されました。行き場のないゴミが周り回って外国まで行ってしまったのです。
島崎藤村の詞ように「椰子の実」であれば風情のある流れ物でしょうが、こういった産廃であれば当然、現地の人たちにとっては外国に思いをはせるどころか迷惑を通り越して怒りでいっぱいでしょう。
日本の各自治体ではどこともゴミ処理場が満杯になってきています。人間は身勝手な者で、自分たちはゴミをどんどん出すのにゴミ処理場は身近に作って欲しくないのです。また都市近郊の人たちは都会のゴミだけを持ってくる身勝手さに怒っています。このような背景で日本でのゴミ処理場が不足してきているため、冒頭に述べた事件が起こってしまったのです。
こういった状況を考えず、取り締まりだけを厳しくしているためゴミは日本全国を転々とし、更に海外にまで行くようになってしまったのでしょう。
製造メーカーも売らんがための製品開発をやめて地球に優しい製品作りに真剣に取り組んで欲しいものです。我々消費者もゴミの出ない、また環境に優しい製品を優先して購入、使用しなければゴミはなくなりません。結局、つけは自分たちの所に戻ってくるのです。
もう、使い捨ての時代は終わったのです。
(最近は人間だけでなくゴミまでが海外旅行できる時代となりました!)
99/12/22
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- コンピュータ
ロボットは単純で無機質な作業に適切であり、人に取って代わる作業としていわゆる3Kの危険な、きたないところ、きつい作業などに利用されてきました。しかし人との接触において感情の交流がないため、単に物体としてでしか扱われてきていなかったのですが近年のコンピュータの進歩に伴い、ソフト面でこの欠点をカバーして学習能力を持った、感情を表現するロボットがでてきています。
最近、ソニーが販売している犬ロボットのアイボなどがその部類です。こういった取り組みが増えてきますと今までになかった分野でもロボットの活躍の場が広がりそうです。たとえば医療面において、自立できない病人の指示を受けて看護作業をしながら話し相手もできるなどです。こういうことは今までは難しいことでしたが、アイボをみていると実現に近づいてきていることをひしひしと感じます。
しかし、いくらプログラム上で喜怒哀楽が表現できるようになってもロボットの感情は現状ではある決まったパターンでしか表現できません。やはり今のコンピュータ性能ではロボットとのスキンシップには限度があります。
もう少しで2000年ですが映画「2001年宇宙の旅」に登場したコンピュータHALのように自然な対話ができるコンピュータはまだ時間がかかりそうです。
話が変わりますが、、インターネットが手軽に利用できる時代となり、チャットなどがはやっていますが、文字だけでの会話では微妙な意志、状況が伝わりません。”こんにちは” は文字では1つしかありませんが言葉では何十通りの言い方があります。対面会話した場合、最初の一言で相手がどういった状況かを推し量ることができます。いくらチャットのやりとりを行っても相手を知るにはオフミーティングに勝る物はありません。
現時点ではコンピュータの能力はまだまだ人間に太刀打ちできる状態にはありません。(当然?)
従ってコンピュータでできることとできないことを選択にして臨機応変に利用の仕方を考慮した方がよいと思います。こういうデジタルの時代だからこそ、生身の人間と接することは大切なことで、意義あることを再認識できます。人とのふれあいをいつまでも大切にしたいものです。
(そのうち臓器移植ならぬ感情移植がロボットに行われる時代になるかもしれません。)
99/11/16
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- 成立顛末
来年4月から施行の介護保険制度でいろいろ矛盾が生じています。本来の趣旨は人間、長生きするようになったため、要介護期間が長期化し家族の負担が大きくなりすぎ、社会環境も世代の隔離が進んできているため家族で高齢者を世話する状況でなくなってきたため、保険料を徴収することによって介護を社会全体で支えていくことを基本とした制度であります。
しかし施行に当たって要看護認定を受ける必要があるのですが、この要看護状態をチェックする調査票がくせ者で調査員による判断に差がでて介護ランクが流動的になる、また評価点が1点差で自立とか要支援と判断され保険適用外になって行き場がなくなった、などの問題が指摘されています。
また家族介護に対しての給付金支給に関しては”保険料を支払ってながら介護している家族にはまったく経済的支援がないのは不公平”という賛成意見から、”現金を支給すれば家族が介護に縛り付けられてしまう、公的サービスが育たない”などの反対意見もあります。
おまけに総選挙をにらんでこの制度の保険料徴収を一時的に凍結するなどそれぞれの思惑が働いて出足から躓いています。この立派な考えの制度に政治家の泥臭い駆け引きを持ち込んでほしくないのです。
こういったいろいろな課題を抱えたままでのこの制度はまだまだ試作品の段階のようです。
現実の切実な問題として真剣に討論して試行錯誤してでもすばらしい制度としてほしいものです。
(私が介護を受ける頃には社会から堂々とサービスを受けられるような環境での制度になっていてほし〜い−−財津一郎−−)
99/10/29
つづく 乞うご期待
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